北海道中央バスファンクラブ 制作・著作 KSK-PROJECT

中央バス廃線倶楽部

廃止された中央バス路線の思い出日記

札幌近郊篇 その1

★印:レア度

青山線のナガ〜い歴史

青山線(当別〜四番川〜幌)
昭和24年11月10日免許〜平成15年4月1日廃止
★★★★★

《停車停留所》 当別 白樺通 勝円寺 中町 六軒町 二番地橋 門地沢 茂平沢橋 神社前 弁華別局前 与六沢 平沢前 弁華別中央 第十組合 中村木材工場 勝藤前 阿蘇岩口 青山橋 青山南部 十万坪 共有地 中山の沢 川崎 草間前 内沢前 大沼 沼の沢 青山吊橋 開運橋 青山農協前 岩厚線入口 青山診療所 青山中央 青山作業所 青山墓地前 炭鉱の沢 二番川 吉野前 土方橋 青山ダム 菊地商店 三番川 青山盤の沢 酒井前 四番川 五番川 郡界 泥川 御料地中央 盤の沢 滝の沢 黄金川 実田橋 実田村 新田 柏木2号 中央柏木 公民館前 柏木 浜益農協前 川下 浜益中学校 茂生 築港事務所 浜益小学校 群別 室蘭沢 幌 (昭和43年現在)

(コメント)
 【青山線の歴史】
 昭和24年 太美駅〜青山中央間で運行開始
 昭和31年 当別駅前〜青山中央間の運行になる
 昭和32年 青山中央〜青山ダム間延長
 昭和35年5月 青山ダム〜四番川間延長 (昭和33年9月開始予定→悪路のため延期)
 昭和39年12月 青山ダム〜三番川付近でルート変更(青山ダム完成に伴う)
 昭和41年12月 四番川〜幌間延長
 昭和42年11月 当別ターミナル(下川通り)完成
 昭和45年10月 四番川〜幌間廃止
 昭和50年11月 二番川〜四番川間廃止
 昭和63年11月 青山中央〜二番川間廃止
 平成3年7月 夏期のみ「道民の森」(三番川)まで延長運行
 平成6年4月 当別町が路線を継承し、札幌第一観光バスに運行委託(みどりの団地乗り入れ)
 平成12年4月 試験的に終点を「四番川」まで延長
 平成12年12月 当別ダム建設に伴い終点を「青山南部」に短縮
 平成14年12月 当別ターミナル閉鎖により、始発停留所を「当別駅北口」に変更
 平成15年3月 下段モータースに運行をバトンタッチし、青山線の運行終了

 このように青山線は紆余曲折を経て現在に至っている。S40年代前半には当別〜浜益間を結ぶ総延長81kmもの長大路線だった!

 当初は平行して殖民軌道[*註]も走っており、現石狩当別駅の裏手から六軒町〜茂平沢橋〜弁華別〜砂利揚場〜青山橋〜共有地〜中山の沢〜沼ノ沢〜青山中央〜六号〜一番川〜花田前〜吉野前〜大袋(現在の青山ダム付近)まで客車も運行されていたようだが、バス停にも駅名の名残りが若干垣間みられる。

 近い将来、青山地区はダム建設によって水没するらしく、現在住民転居が進められている。

★[*註] 当別青山開拓殖民軌道(通称・当別軌道)。青山地区に入植した開拓者や生産品、生活必需品を輸送するため、1949(S24)年6月1日に当別市街〜青山橋間10kmを開業、以後も路線を延ばし、52年には大袋まで33kmが全線開通したが、平行する道道の整備やバス開通で乗客がめっきり減り、赤字のため1955(S30)年11月頃運転休止した。軌間762mmの簡易軌道を国費で敷設し、地元の運行組合が経営に当たるというのが殖民軌道の基本であり、おもに道東、道北に多かった。詳しくは『簡易軌道写真帖(1997)』今井理・森川幸一著を参照。

懐かしの植民軌道ダイヤ


厚田村の閑散路線

厚田発足線(厚田〜発足小学校)
昭和41年12月1日開業〜昭和45年12月末廃止
★★★★☆

《停車停留所》 厚田 厚田十字街 厚田橋 ぼくさない 発足橋 発足小学校 (昭和43年現在)

(コメント)
 発足とかいてハッタリと読む。

 場所は札幌から国道231号線を浜益方面に北上、途中の厚田村から道々月形厚田線(厚田山道)を東に7kmほど山に入ったところにある。

 「厚田」「厚田十字街」「厚田橋」は現存しない停留所だが、どうやら当時は浜側の集落まで乗り入れていたもよう。

 当時、厚田村内を走る路線バスは他に厚田線(当別〜厚田)くらいしかなく、札幌への道は石狩川で分断されていた。札幌〜浜益間の直行便(札浜線、札厚線)が誕生するのは、長大な「石狩河口橋」が開通する1972(S47)年7月まで待たねばならない。

 中央バス廃止後は厚田村営バスに引き継がれ「発足橋」「発足小学校」の停留所はいまも存在する。現在村営バスは発足小学校から北に折れ、更に谷深い部落の奥地まで運行している。

 不採算路線の市町村への移管はいまではさほど珍しくないが、当時はまだ先駆けの頃で、北海道では1970(S45)年に池田町で実施されたのを皮切りに瞬く間に広がっていった。

 しかし、当時のバス業界は右肩上がりの好況期だったハズ…。そんな時期に廃止されたこの路線、よほど不採算路線だったんだろうか。


新港開発で消えた路線

樽川線(札幌ターミナル〜茨戸〜花畔〜オタネ浜)
昭和37年11月15日開業〜昭和48年11月1日廃止
★★★★☆

《停車停留所》 札幌ターミナル〜(石狩線と同じ)〜茨戸 谷口農場 屯田新道 花川中学校 花畔 6号線 7号線 樽川10線 樽川9線 樽川8線 樽川7線 樽川学校前 樽川5線 樽川4線 樽川3線 オタネ浜 (昭和45年現在)

(コメント)
 いまでは企業や工場が立ち並び、夏場はライジングサンのロックフェス会場となる石狩湾新港だが、以前この辺りは"樽川村"と呼ばれ、民家が点々と広がるのどかな水田地帯だった。

 周辺には花畔から銭函まで抜ける一本道(国道337号)があり、バスはそのルート沿いを走っていた。しかし、今では国道ルートも切り替えられ、廃線跡もあまり残っていない。

 終点のオタネ浜[*註1]は、現在の新川河口付近(銭函4丁目)にあったわりと大きな集落で、以前は神社などもあったようだが、すでに集落は跡形もなく、国道から浜へと向かう旧バス道路(樽川3線)もいまでは荒れ果て「ホントにバスが走っていたんだろうか....」と思うほど。

 オタネ浜にはかつて海水浴場があり、お隣の十線浜海水浴場[*註2]とともに夏場は行楽客でけっこう賑わっていた。しかし、石狩湾新港開発が着工された1973(S48)年に両海水浴場が閉鎖され、樽川学校の廃止や住民移転もあり、バスは休止を余儀なくされた。

 もともと樽川線は「樽川4線」までの運行だったが、1965(S40)年12月オタネ浜まで延長された。またS40年代半ば、沿線に農住団地や花川ニュータウン(札幌臨港鉄道が販売)が造成され、「6号線」が「団地前」に改称されている。

★[*註1] 小樽地名のルーツであり、昔はアイヌの部落がありサケの好漁場だったが、のちに松前藩がここに"オタルナイ場所"を設けて家臣の氏家六左衛門直知に与え、オタルナイ川〜オコバチ川(妙見川)間約19.2kmを統治したが、慶応元年(1865年)に廃止。町名は昭和55年に"小樽市大字樽川村小樽内川"から"同市銭函4丁目"に変更されている。
★[*註2] 漁業の不振にあえぐ近隣の前浜の漁民ら(樽川十線浜海水浴場組合)が資金を出し合ってS41年から経営していた海水浴場。売店、休憩所、シャワー、貸ボートなどがあり、翌42年には延べ23万人の海水浴客でにぎわった。場所はこの路線の「樽川10線」バス停から右へ約1kmほど入ったところ。


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