北海道中央バスファンクラブ 制作・著作 KSK-PROJECT
中央バス廃線倶楽部 |
廃止された中央バス路線の思い出日記
青山線のナガ〜い歴史青山線(当別〜四番川〜幌) (コメント) このように青山線は紆余曲折を経て現在に至っている。S40年代前半には当別〜浜益間を結ぶ総延長81kmもの長大路線だった! 当初は平行して殖民軌道[*註]も走っており、現石狩当別駅の裏手から六軒町〜茂平沢橋〜弁華別〜砂利揚場〜青山橋〜共有地〜中山の沢〜沼ノ沢〜青山中央〜六号〜一番川〜花田前〜吉野前〜大袋(現在の青山ダム付近)まで客車も運行されていたようだが、バス停にも駅名の名残りが若干垣間みられる。 近い将来、青山地区はダム建設によって水没するらしく、現在住民転居が進められている。 ★[*註] 当別青山開拓殖民軌道(通称・当別軌道)。青山地区に入植した開拓者や生産品、生活必需品を輸送するため、1949(S24)年6月1日に当別市街〜青山橋間10kmを開業、以後も路線を延ばし、52年には大袋まで33kmが全線開通したが、平行する道道の整備やバス開通で乗客がめっきり減り、赤字のため1955(S30)年11月頃運転休止した。軌間762mmの簡易軌道を国費で敷設し、地元の運行組合が経営に当たるというのが殖民軌道の基本であり、おもに道東、道北に多かった。詳しくは『簡易軌道写真帖(1997)』今井理・森川幸一著を参照。 |
厚田村の閑散路線厚田発足線(厚田〜発足小学校) (コメント) 場所は札幌から国道231号線を浜益方面に北上、途中の厚田村から道々月形厚田線(厚田山道)を東に7kmほど山に入ったところにある。 「厚田」「厚田十字街」「厚田橋」は現存しない停留所だが、どうやら当時は浜側の集落まで乗り入れていたもよう。 当時、厚田村内を走る路線バスは他に厚田線(当別〜厚田)くらいしかなく、札幌への道は石狩川で分断されていた。札幌〜浜益間の直行便(札浜線、札厚線)が誕生するのは、長大な「石狩河口橋」が開通する1972(S47)年7月まで待たねばならない。 中央バス廃止後は厚田村営バスに引き継がれ「発足橋」「発足小学校」の停留所はいまも存在する。現在村営バスは発足小学校から北に折れ、更に谷深い部落の奥地まで運行している。 不採算路線の市町村への移管はいまではさほど珍しくないが、当時はまだ先駆けの頃で、北海道では1970(S45)年に池田町で実施されたのを皮切りに瞬く間に広がっていった。 しかし、当時のバス業界は右肩上がりの好況期だったハズ…。そんな時期に廃止されたこの路線、よほど不採算路線だったんだろうか。 |
新港開発で消えた路線樽川線(札幌ターミナル〜茨戸〜花畔〜オタネ浜) (コメント) 周辺には花畔から銭函まで抜ける一本道(国道337号)があり、バスはそのルート沿いを走っていた。しかし、今では国道ルートも切り替えられ、廃線跡もあまり残っていない。 終点のオタネ浜[*註1]は、現在の新川河口付近(銭函4丁目)にあったわりと大きな集落で、以前は神社などもあったようだが、すでに集落は跡形もなく、国道から浜へと向かう旧バス道路(樽川3線)もいまでは荒れ果て「ホントにバスが走っていたんだろうか....」と思うほど。 オタネ浜にはかつて海水浴場があり、お隣の十線浜海水浴場[*註2]とともに夏場は行楽客でけっこう賑わっていた。しかし、石狩湾新港開発が着工された1973(S48)年に両海水浴場が閉鎖され、樽川学校の廃止や住民移転もあり、バスは休止を余儀なくされた。 もともと樽川線は「樽川4線」までの運行だったが、1965(S40)年12月オタネ浜まで延長された。またS40年代半ば、沿線に農住団地や花川ニュータウン(札幌臨港鉄道が販売)が造成され、「6号線」が「団地前」に改称されている。 ★[*註1] 小樽地名のルーツであり、昔はアイヌの部落がありサケの好漁場だったが、のちに松前藩がここに"オタルナイ場所"を設けて家臣の氏家六左衛門直知に与え、オタルナイ川〜オコバチ川(妙見川)間約19.2kmを統治したが、慶応元年(1865年)に廃止。町名は昭和55年に"小樽市大字樽川村小樽内川"から"同市銭函4丁目"に変更されている。 |