北海道中央バスファンクラブ 制作・著作 KSK-PROJECT

中央バス廃線倶楽部

廃止された中央バス路線の思い出日記

札幌近郊篇 その4

★印:レア度

渡船廃止で消えたマチ

石狩町内線(石狩〜母子会館前)
昭和53年4月1日開始〜平成5年12月1日廃止
★★★☆☆

《停車停留所》 石狩 役場前 石狩小学校前 治水事務所 町営住宅前 矢臼場 石狩団地 八幡町入口 八幡町 母子会館前 (昭和53年頃)

(コメント)
 名物・石狩鍋(アキアジ鍋)発祥の地として有名な石狩市の本町地区。
 かつて漁業マチとして活況を呈した面影もなく、いまはヒッソリカンとした集落と化している。

 かつてはサケマス孵化場や造船所、郡役所もあり、いまなお多くの神社や仏閣が残ることから在りし日の繁栄ぶりをうかがい知ることができる。S30年代には桑園駅〜新川〜花畔〜石狩本町間(20.5km)を私鉄・石狩鉄道(石狩電鉄)で結ぶ大計画が進められ、S40年代は石狩浜やお隣、十線浜まで臨時バスも出るほど海水浴場のメッカだった。[*註1]

 そんな本町旧市街と対岸の八幡町を結ぶ全国唯一の国営渡船、石狩渡船(石狩渡し)がS53年まで運航されており、渡船廃止の代替バス(昔は"だいがえバス"と言った)として登場したのがこの路線。[*註2]

 地元住民にはけっこう重宝されていたが、沿岸漁業の衰退による過疎化や、S50年代にベッドタウンとして急成長した花川地区への役場移転で利用客がガタ減りとなり、15年にわたる運行にピリオドが打たれた....

 「石狩小学校前」(現・親船町)はS51年まで「車庫前」という名称で、バス停前には木造モルタル塗りの旧中央バス車庫(S38年建設)がいまも残る。

 「母子会館前」は札厚線の転回場としていまも利用されているが、昔は八幡町から堤防を突っ切り、その少し先の「石狩渡船場」までバスが乗り入れ、フェリーボートに乗り継ぐマイカーや海水浴客であふれ返った渡船マチがあった。[*註3]
 そんなにぎわいも、堤防改修工事でいまや跡形もなくなり、無人と化した河川敷には廃墟と化した旧バス道が残るだけ。一方の渡船場跡も、経年の河岸侵食によって広大な石狩川のミナモに消え失せてしまったようである....

★[*註1] もともと現在の三線浜付近が本来の海水浴場&キャンプ村だったもよう。
★[*註2] 石狩渡船は車運搬用(数台分)と人・自転車運搬用のフェリーボートが別々に運航されており、クルマに乗ったまま川を渡れた。
★[*註3] 石狩渡船場の正式名は『八幡町渡船場』、昔は中央バスの待合所や転回場もあった。


戦前からあったニシン路線

厚田線(当別〜太美駅前〜厚田)
大正15年9月16日開業〜昭和47年11月21日廃止
★★★☆☆

《停車停留所》 当別 石狩街道 車庫前 中央排水 材木沢 23線 東方前 大沢通 20線 19線 18線 太美駅通 太美北1号 西中学校 南1号線 太美駅前 南1号線 西中学校 太美北1号 太美駅通 獅子内 15線 当別高岡 五万坪入口 ▲五万坪中央 ▲五万坪 ▲光明寺 ▲高岡局前 ▲光明寺 ▲西高岡 ▲引野坂 ▲農道入口 △11線 高岡入口 9線 8線 東小学校 喜楽前 八幡町 渡船場 八幡町 来札 新開地 聚富団体 聚富本通 聚富 聚富北部 日景温泉 望来坂下 望来 望来小学校 本覚寺 望来大橋 嶺泊 藤林牧場 古潭 押琴 小谷中央 青島 別狩 別狩中央 厚田橋 厚田十字街 厚田 (昭和43年頃) {▲高岡経由 △11線経由}

(コメント)
 厚田村は日本海に面する小さな漁村だが、かつてニシンの千石場所として栄え、人口もかなり多かった。

 戦前からすでにバスが運行され[*註1]、いまの戸田旅館のトナリに中央バスの発着場や車庫もあったそうだが、平成の大合併で現在は石狩市の一部と化している。

 この路線は石狩川の石狩河口橋(河川に架かる橋では道内No.1の長さ)が開通したS47年7月、札浜線(札幌ターミナル〜幌)の開業に伴い、石狩八幡町〜厚田間を廃止して「当石線」に生まれ変わったが、晩年は地元の学生かお年寄りくらいしか利用がなく、H8年を最後に廃止されてしまった。

 S31年ごろまでは来札〜望来間を聚富(シップ)の山道回りじゃなく、"はまなす海水浴場"のあったシラツカリやムエン浜の海岸道路を運行していたというから「知津狩」「無煙」なんていうバス停も当時あったのだろうか....

 太美駅前では折り返しのため、いきなりウラ道の住宅街に入ったり、高岡郵便局に隣接したアキ地で突然バック転回したりと....なかなかアバンギャルドな路線だった。
 昭和初期には高岡局の前に日石専用軌道が走っており、八幡町からトーメン団地を突っ切り、石狩油田のあった八ノ沢鉱業所まで結ばれていたとか....

★[*註1] T15年9月16日、厚田村(現・石狩市)の竹本和太郎氏が厚田〜石狩八幡町間で運行を始めたのがこの路線のルーツと思われる。その後、S4年5月7日から石狩町(同)の堀江寅吉氏が石狩八幡町〜当別間を開業させたもよう。


運河越えしたオヤフル線

生振線(松竹座前・札幌ターミナル〜生振観音前〜石狩)
昭和32年8月13日開業〜昭和40年3月1日廃止
★★★★☆

《停車停留所》 松竹座前 南1条 北1条 札幌ターミナル 北4条 北9条 北12条 北16条 北21条 北26条 陸運事務所前 北栄中学 北34条 北37条 北39条 栄町更生 栄町北 中島 1番通 2番通 3番通 4番通 横新道 上茨戸 耕北農場 茨戸入口 茨戸 農協前 南2号 筋違線 南6線 南7線 南8線 南1号 基線 生振観音前 北3号 運河橋 矢臼場 治水事務所 車庫前 役場前 石狩 (昭和38年頃)

(コメント)
 どう見ても「ナマブリ」としか読めない、札幌の最果て「あいの里」のさらに奥、石狩川のほとりにある、その名も生振(おやふる)村。

 道内でも歴史のある古い農村のひとつで、かつて一面に昭和初期のような牧歌的な風景が広がっていたが、何年か前に二車線のバイパスが完成した今は風景も一変してしまった....

 かつてこの路線は石狩まで運行されており、バス停名にもなった勢至観音(その昔、観音堂の勢至菩薩で有名だった)から石狩川堤防沿いを北上、生振運河を渡って石狩旧市街に乗り入れていた。

 途中、渡船聚落の“北八船場”や運河橋に停留所もあったもようだが、以前この道はもう少し“新川”の堤防ヨリで、矢臼場(ヤウスバ)までジャリ道だったような気もする。[*註1]

 もともと中央バスの前身会社のひとつ札幌軌道バス[*註2]が観音橋の開通したS10年10月に開設、以後70年以上も運行していた古株路線だが、かつて同社は札幌〜茨戸間に馬車鉄道やガソリン機関車を利用したガソリン軌道(冬は馬ソリ)を走らせており「中島」「横新道」「上茨戸」などの停名も駅名から引き継がれている。

 起点の札幌松竹座[*註3]は、かつて東京以北最大規模といわれたキネマの殿堂、薄野の映画館。洋画ロードショーのほか、芝居や音楽会も催されていたが、S45年惜しまれつつ閉館…。S39年11月まで新琴似、丘珠、篠路、樽川、石狩、生振など札幌北方面のバスは一部ココを起終点にしていた。並びにマンモスキャバレー『エンペラー』やアオキボウルの入っていたアオキビル(南4西2)がS48年にオープン、毎週のように人気スター歌手の大看板が掲げられていたのもナツかしい。その向かいの薄野の一等地、かに将軍[*註4]の場所に、S30〜40年代まで中央バスの南4条案内所(日劇前、松竹座前バス停用)があったことは意外と知られてない....

★[*註1] 当時の運河橋も現在よりやや下流(石狩川ヨリ)にあった。
★[*註2] 旧製麻会社わきの北6条から石狩街道を北上していた軌道『札北(さつほく)馬車鉄道株式会社』が前身。M44年6月11日に前田農場前まで10.0km開通、翌年『札幌軌道』に改称し茨戸太まで0.5km延長、T6年に茨戸まで0.5km延長。茨戸で同社経営の発動機船(皐月丸)に乗り換え、花畔(花川小ウラ)や石狩の八幡町まで向かうことができた。T11年に馬鉄からガソリンカーに切り替えたが、S9年11月、国鉄札沼線(桑園〜当別間)開通により翌年補償を受けて営業廃止。ちなみにT6年当別まで延長出願したが、江別〜当別間の軌道敷設を出願した別の業者と競願になり、双方とも却下になったというハナシ....
★[*註3] 現第3グリーンビル(南4西3)辺り
★[*註4] S56年1月オープンしたあの動く巨大オブジェで有名な店、現在は諸般の事情で動かなくなっている....


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