北海道中央バスファンクラブ 制作・著作 KSK-PROJECT
中央バス廃線倶楽部 |
廃止された中央バス路線の思い出日記
渡船廃止で消えたマチ石狩町内線(石狩〜母子会館前) (コメント) かつてはサケマス孵化場や造船所、郡役所もあり、いまなお多くの神社や仏閣が残ることから在りし日の繁栄ぶりをうかがい知ることができる。S30年代には桑園駅〜新川〜花畔〜石狩本町間(20.5km)を私鉄・石狩鉄道(石狩電鉄)で結ぶ大計画が進められ、S40年代は石狩浜やお隣、十線浜まで臨時バスも出るほど海水浴場のメッカだった。[*註1] そんな本町旧市街と対岸の八幡町を結ぶ全国唯一の国営渡船、石狩渡船(石狩渡し)がS53年まで運航されており、渡船廃止の代替バス(昔は"だいがえバス"と言った)として登場したのがこの路線。[*註2] 地元住民にはけっこう重宝されていたが、沿岸漁業の衰退による過疎化や、S50年代にベッドタウンとして急成長した花川地区への役場移転で利用客がガタ減りとなり、15年にわたる運行にピリオドが打たれた.... 「石狩小学校前」(現・親船町)はS51年まで「車庫前」という名称で、バス停前には木造モルタル塗りの旧中央バス車庫(S38年建設)がいまも残る。 「母子会館前」は札厚線の転回場としていまも利用されているが、昔は八幡町から堤防を突っ切り、その少し先の「石狩渡船場」までバスが乗り入れ、フェリーボートに乗り継ぐマイカーや海水浴客であふれ返った渡船マチがあった。[*註3] ★[*註1] もともと現在の三線浜付近が本来の海水浴場&キャンプ村だったもよう。 |
戦前からあったニシン路線厚田線(当別〜太美駅前〜厚田) (コメント) 戦前からすでにバスが運行され[*註1]、いまの戸田旅館のトナリに中央バスの発着場や車庫もあったそうだが、平成の大合併で現在は石狩市の一部と化している。 この路線は石狩川の石狩河口橋(河川に架かる橋では道内No.1の長さ)が開通したS47年7月、札浜線(札幌ターミナル〜幌)の開業に伴い、石狩八幡町〜厚田間を廃止して「当石線」に生まれ変わったが、晩年は地元の学生かお年寄りくらいしか利用がなく、H8年を最後に廃止されてしまった。 S31年ごろまでは来札〜望来間を聚富(シップ)の山道回りじゃなく、"はまなす海水浴場"のあったシラツカリやムエン浜の海岸道路を運行していたというから「知津狩」「無煙」なんていうバス停も当時あったのだろうか.... 太美駅前では折り返しのため、いきなりウラ道の住宅街に入ったり、高岡郵便局に隣接したアキ地で突然バック転回したりと....なかなかアバンギャルドな路線だった。 ★[*註1] T15年9月16日、厚田村(現・石狩市)の竹本和太郎氏が厚田〜石狩八幡町間で運行を始めたのがこの路線のルーツと思われる。その後、S4年5月7日から石狩町(同)の堀江寅吉氏が石狩八幡町〜当別間を開業させたもよう。 |
運河越えしたオヤフル線生振線(松竹座前・札幌ターミナル〜生振観音前〜石狩) (コメント) 道内でも歴史のある古い農村のひとつで、かつて一面に昭和初期のような牧歌的な風景が広がっていたが、何年か前に二車線のバイパスが完成した今は風景も一変してしまった.... かつてこの路線は石狩まで運行されており、バス停名にもなった勢至観音(その昔、観音堂の勢至菩薩で有名だった)から石狩川堤防沿いを北上、生振運河を渡って石狩旧市街に乗り入れていた。 途中、渡船聚落の“北八船場”や運河橋に停留所もあったもようだが、以前この道はもう少し“新川”の堤防ヨリで、矢臼場(ヤウスバ)までジャリ道だったような気もする。[*註1] もともと中央バスの前身会社のひとつ札幌軌道バス[*註2]が観音橋の開通したS10年10月に開設、以後70年以上も運行していた古株路線だが、かつて同社は札幌〜茨戸間に馬車鉄道やガソリン機関車を利用したガソリン軌道(冬は馬ソリ)を走らせており「中島」「横新道」「上茨戸」などの停名も駅名から引き継がれている。 起点の札幌松竹座[*註3]は、かつて東京以北最大規模といわれたキネマの殿堂、薄野の映画館。洋画ロードショーのほか、芝居や音楽会も催されていたが、S45年惜しまれつつ閉館…。S39年11月まで新琴似、丘珠、篠路、樽川、石狩、生振など札幌北方面のバスは一部ココを起終点にしていた。並びにマンモスキャバレー『エンペラー』やアオキボウルの入っていたアオキビル(南4西2)がS48年にオープン、毎週のように人気スター歌手の大看板が掲げられていたのもナツかしい。その向かいの薄野の一等地、かに将軍[*註4]の場所に、S30〜40年代まで中央バスの南4条案内所(日劇前、松竹座前バス停用)があったことは意外と知られてない.... ★[*註1] 当時の運河橋も現在よりやや下流(石狩川ヨリ)にあった。 |