北海道中央バスファンクラブ 制作・著作 KSK-PROJECT
中央バス廃線倶楽部 |
廃止された中央バス路線の思い出日記
消えたアイヌ部落札幌・江別線(札幌ターミナル〜市界〜江別ターミナル) (コメント) とくに苗穂の旧雁来踏切、イオンモール札幌苗穂〜雁来大橋間、市界付近[*註1]の切り替えが有名だが、もうひとつ対雁部落の切り替えが印象深い。 対雁(ツイシカリ)は上記停留所にもあるように、新石狩大橋〜石狩大橋間の川っプチにあった旧市街地である。江別発祥の地といわれ、1844(弘化元)年に番屋が置かれてから、1876(明治9)年に800人余りの樺太アイヌがここに移住、1世紀以上昔は大変な賑わいをみせたという。 部落には駅逓所[*註2]や学校、対雁神社、対雁・江別両村合同の戸長役場も置かれたが、コレラの大流行や役場の移転で付近一帯は完全にさびれ、また石狩川築堤工事による道路切り替えで一帯が河川敷地になることが決まり、旧豊平川河口の対雁橋跡近くにあった史跡・駅逓の松[*註3]も1974(S49)年自動車事故で切り倒され、いまでは往時を偲ぶものは何も残っていない.... バスルートも1973(S48)年、石狩川堤防を走る対雁新道(国道337号)に切り替わったあと、1983(S58)年に現在の対雁工業団地経由に改められ、旧市街地を走るバス路線は完全に消えてしまった。[*註4] しいていうなら、新石狩大橋付近にある国道337号の微妙なS字カーブと、石狩大橋から河川敷に下ってゆく旧道が旧対雁市街地への"痕跡"といえるだろうか.... ★[*註1] 新国道ルート切り替えはS39年1月7日付で免許されているが、S63年までこの札江線だけジャリの旧道を走っており、旧・市界バス停跡(以前はイチカイと称していた)には、いまも木造の古びたバス待合所が残っている |
地盤沈下した歓楽街江別市内線(東官舎前〜江別駅前〜江別高校) (コメント) 昔は江別駅一帯が市民の台所で、駅から一直線に延びる“公園通り”には商店やスーパー、銀行、映画館、バスターミナルなどがひしめき「江別を走るバスはすべて江別駅に通ずる」と言っても過言じゃないほどの大歓楽街だった。 ところが、野幌への相次ぐ大型店進出ラッシュで、バブル崩壊後はすっかりシャッター街と化し、近年増えつつある"中心街空洞化都市"の先がけのようなマチである.... 途中の公園館[*註1]は大正時代からあった老舗映画館。S32年まで公園通りに面して建っていたが、閉館後もしばらくバス停名だけ残っていたらしい。近くには明治30年代にできた「千歳座」(5条5)という映画館もあり、付近一帯は大変な賑わいを見せていたという。 2番町通[*註2]はS48年まであったバス停だが、いまの元江別公園(S51年開園)一帯に戦時中に完成した王子航空機(→北日本製紙→王子製紙)の大社宅群がかつてあり、いまも元町商店街にその賑わいをとどめている。 起点の東官舎前はいまの東光町(江別太市街)にあたり、近くに開発局の治水官舎や"機械工作所江別工場"もあったが、現在は風光明媚な泉の沼(川跡湖)を望む閑静な住宅街にサマ変わりしている。 当時のバスは東光橋手前で右折し、大川通りの踏切を北上して江別駅(停車場通り)に抜けていたが、S54年にアンダーパスをくぐる現在のルートに切り替えられ、千歳川に架かっていた江別橋[*註3]も撤去されているので、廃線跡をたどるのはかなり難しそう.... この路線は2番通りに乗り入れた中央バス初の江別市内線になるワケだが、その前年のS34年、国鉄バスが江別市内線に初参戦しており、この路線開設のウラにはそんな事情も少なからずあったのでは....[*註4] ★[*註1] 公園通り×国道12号あたり(いまの8条7丁目)にあった映画館。定員650名の大きな建物だったが設備が整わず観客からの苦情も多く、また盛り場から離れ興行も芳しくないためS32.4.19に一部120坪を残して取り壊された。 |
夢のニュータウンだった…大麻団地大麻線(江別駅前〜野幌駅前〜大麻小学校) (コメント) 古い路線なので停名もサマ変わりしているが、当時は14丁目の十字街(中町商店街)から北に400mほど入った大麻小学校が終点だった。 S43年12月終点を「16丁目」に変更、S45年3月「大麻西町」の旧商店街まで延伸、現在の江別2番通線の原形路線である。 S41年12月大麻駅が誕生し、団地内に国鉄バス(現JRバス)や札幌市営バスもドッと乗り入れるようになったが、イチ早く乗り入れたのは中央バスである。[*註2] 団地住民の要望でS45年6月から札幌へ直行する「東91大麻線」(札幌タ〜大麻〜江別タ、H16廃止)も中央・市営・国鉄の3者競願のすえスタートしたが、なぜか中央バスだけ途中で米里(雁来街道)に出る妙なルートで、しかも当初は宮町西〜米里間ノンストップ。当時の道々東雁来・江別線もひどいジャリ道で、毎日バスに揺られているうち流産した人もいたとかいないとか.... ★[*註1] 江別市西部に広がる北海道住宅供給公社のマンモス団地。カラフルな三角屋根が整然と並ぶ戸建住宅は、かつて麻生、屯田、花畔(石狩)、真駒内、もみじ台、北広島など札幌郊外のベッドタウンでよく見られた。随所に配置されたショッピングモール、駅周辺の中枢施設、地下アンダーパスなど当時は最先端のニュータウンだったが、40年たったいまでは人口減と少子高齢化でやや寂れている.... |
飛行場のあった見晴台高砂線(江別駅前〜新栄通〜高砂駅〜野幌駅前) (コメント) 当時まだ開通まもない新栄通りに「元野幌」「中央中学校前」「中央町」の3停留所が設けられ、完成したばかりの新道を颯爽と駆け抜けていたが、バブル崩壊から続くニュータウン斜陽化の影響か....数年で廃止されてしまった。H27年10月『野幌見晴台線』という実験路線も市の主導で開始されたが、こちらもまた大幅赤字であった.... ちなみに見晴台には、終戦まで王子の軍需飛行場[*註]があり、王子製紙の工場から飛烏山公園のテニスコートを抜け、飛行場へ至る延長約4.6kmの誘導路(ナナメ道路)が続いており、旧豊平川の河畔林から4番通りの旧家畜センター(現ノーサイ)にかけ南北1.7kmにわたるコンクリート製の太い滑走路もあったが、S50年代の宅地造成で跡形もなくなっている.... ★[*註] 飛行場跡は正式には王子航空飛行場(江別飛行場)といい、場所は中央バスの見晴台バス停付近一帯、大戦末期にはここから国内初の木製戦闘機『キ106』が3機飛び立ったという。見晴台の元江別緑地の一角は第1滑走路跡にあたり、跡地には『史跡 旧飛行場跡』と記された標塚が建立されている。第2滑走路(延長1.3km)については測量のみで着工前に終戦となった模様。 |