北海道中央バスファンクラブ 制作・著作 KSK-PROJECT
中央バス廃線倶楽部 |
廃止された中央バス路線の思い出日記
留鉄廃業の代替路線昭和線(深川ターミナル〜沼田駅前〜昭和炭山) (コメント) かつて沿線には浅野の雨竜炭鉱、九州炭鉱太刀別鉱、明治鉱業昭和鉱のいわゆる「沼田三山」(雨龍炭田)があったのだが、S43年11月に雨竜鉱が閉山、翌年4月には残る2鉱の閉山も急遽決まり、沿線を走っていた留萌鉄道[*註]も同月末で廃業することになり、アシを失う住民のため、中央バスが沼田線(深川タ〜沼田駅前)のうち6往復を昭和鉱まで期間限定路線免許で臨時運行することになった。しかも閉山決定からおよそ3週間でバスが運行されており、かなり慌ただしい開設だったようである。 だがしかし....基幹産業を失った昭和鉱住宅街のゴーストタウン化は凄まじかったようで、臨時運行していた中央バスもS45年3月に採算上の理由で運行を中止、翌月から臨時に町営バスが跡を引き継いだ時には浅野生活館前(のちダム湖に水没)までの運行に縮小されている。 ちなみに、途中にある「恵比島」は近年NHKの朝ドラ『すずらん』の舞台として一躍脚光を浴びたが、いまは元のヒッソリカンとした集落に戻っている.... ★[*註] S8年10月末当時の留萌鉄道は、恵比島〜昭和間、卯田萌〜西留萌間、留萌〜川北間の計19.9kmを運行していた。 |
赤平市内の超レア路線赤平市内線(赤平駅前〜赤間経由〜昭和) (コメント) わりと短期間しか運行されなかったようだが、姉妹系統の赤平駅前〜国道経由〜昭和間の方はいまも歌志内線(滝川〜歌志内〜赤平昭和)の"末端路線"として生き延びている。 当時の赤平市は炭鉱全盛期、日本有数の炭鉱都市として其の名を轟かせていた頃で、市内には赤間、住友赤平、豊里、茂尻の4大炭鉱がシノギを削っていたが....いまの閑散としたマチ並みからはチョット想像しがたい。S35年には5万9千人いた人口も、S42年の豊里鉱、S44年の茂尻鉱閉山で人口流出に拍車がかかった。 当時は市営バス計画もあり、中央バスではその頃から市内線の拡張やバスターミナル建設にチカラを入れている。S34年文京町に新出張所と車庫が、S39年駅前の中央通りにバスターミナルが完成している。(もともと駅前広場に出張所があった) ちなみに、終点の赤平昭和[*註]はかつて「昭和」という停名だったが、バスターミナルの運賃表や配布時刻表に"赤平"付きで表示されていたものが次第に恒常化したものと思われる。また、S37年ごろまで赤平市街〜昭和間のバスはいまの赤平橋、文京町、豊橋廻りではなく、市役所前に会った“魔の踏切”(現・廃止)を渡り、宮下町、豊里鉱正門前をぬけ、昭和通りに入るコースであった。 ★[*註] かつて豊里昭和市街と呼ばれた旧豊里砿の炭住街。付近にあった川添町の炭鉱跡地はS43年ごろ水田化された。 |
斜陽化した…市民スキー場深川スキー場線(深川ターミナル〜深川スキー場) (コメント) 空知管内だけでも砂川、空知太(滝川)、芦別、上志文、桂沢、長沼の各スキー路線が次々と廃止されている。かろうじて、岩見沢のグリーンランドスキー場(旧万景閣スキー場)に市内線が細々と乗り入れている程度である.... 森元町通りにあった2代目深川ターミナル[*註1]から出ていたこの路線もS40年代から運行していた老舗スキー路線。 開設当初は三瓶山スキー場[*註2]が終点だったが、バブル期のS63年12月、鳴り物入りでオープンした深川スキー場[*註3]まで延長され、一時は起点を深川駅前にしたり、スキー客の無料化などテコ入れも行われたが、若者のスキー離れには歯が立たず、H9年に三瓶山スキー場、H19年3月深川スキー場が相次ぎ閉鎖。ゲレンデやリフトなどの諸施設は撤去され自然に還っている.... 三瓶山スキー場に隣接して日体協がS48年、11億円の巨費を投じて建設した『道青少年スポーツセンター』というダイナミックな建物もあったが、H10年クラーク高校に無償譲渡されキャンパスに再利用されている。また当時、深川スキー場へ向かう音江山中腹にあった中央バスの廃バス[*註4]はH10年ジブリのネコバスカラーに塗り替えられ、戸外炉峠(トトロとうげ)の停留所とともに保存されている。 ★[*註1] 初代ターミナルは昭和40年ごろまで深川駅前の蓬莱町通り(旧布川医院付近)にあった。 |
空気輸送のタドシ町内線湯内線(多度志駅前〜中湯内会館) 宇摩線(多度志市街〜上宇摩) (コメント) 湯内線は湯内小中学校が多度志小中学校に統合されたS41年、宇摩線は宇摩小が多度志小に統合されたS42年にスタートしたが、さながら中央バス自ら乗り出した路線ではなく、地元や多度志町教委の要請で生まれたワケアリ路線。戸長役場[*註]のあった多度志市街を起点とし、利用はもっぱら通学の児童・生徒が占め、宇摩線にはS47年まで屈狩部落を経由する系統もあった。 当初から採算割れが予想され、毎年中央バスに多度志町教委(S44〜深川市)から助成金が出ていたが、日中は空気輸送も同然で、S54年10月には早くも中央バスから路線廃止の意向が出ている。S58年5月から"フリー乗降制"も一部採られたが、空知中央バスに引継がれぬまま廃止となった.... 昔の多度志はわりと大きなマチで、中央バスではこの路線のほか、多度志線(深川〜多度志)、沼田・多度志線の計4路線が多度志市街を走っており、道々深川・多度志線の旧公住付近には中央バスの多度志車庫があった。(車庫と転回場は当地に残存) 2路線と並行してJR深名線の鉄路もあったが、こちらも深刻な赤字でH7年9月に全線廃止、現在はJRバスが代替輸送している。
★[*註] 旧役場庁舎の一部は多度志市街バス停前の消防署横に現存。 |