北海道中央バスファンクラブ 制作・著作 KSK-PROJECT

中央バス廃線倶楽部

廃止された中央バス路線の思い出日記

小樽管内篇 その3

★印:レア度

まぼろしの6系統

6系統 最上町線(小樽駅前〜第1大通り〜最上町)
昭和4年8月9日開業〜昭和40年頃廃止
★★★★☆

《停車停留所》 小樽駅 都通 中央通 仲店通 稲穂十字街 浅草通 警察署前 富岡町 稲穂本校上 緑一丁目 裁判所前 紅葉橋 緑二丁目 正法寺通 緑三丁目 緑四丁目 緑町車庫前 最上町 (昭和12年頃)

(コメント)
 かつて最上線に、もう1本系統があったことを知っているだろうか....

 系統番号は6系統、望洋台線が誕生するはるか以前のことである。

 緑町第二大通り(旧緑町八間通)を走る現行の7系統ができる前、最上線は第一大通りを運行しており、昭和34年に中央バスが第二大通りにルートを切り替えようとした際、第一大通り沿線の商店街から猛烈な反対運動が巻き起こり、しばらく2系統体制で運行されていた。

 表記の停留所は戦時統合以前の"小樽バス"時代のものだが、市内中心部はすでに循環していた可能性もある。まだ富岡町〜緑1丁目間のナナメ道路がない頃で、稲穂本校上(石原裕次郎の母校で有名)の交差点をクランク運行していたもよう。

 洗心橋のセブンイレブン向いに、かつて中央バス(旧小樽バス)の車庫や社員寮があり、上記の停名も「緑町車庫前」となっている。

 また、緑町地区には古くから柏通り桧通りといったバス停があるが、これはかつて第一大通り〜第二大通り間の小路につけられていた通称である。直行寺に通ずる道から南に向かって直行寺通り、正法寺通り、桂通り、椿通り、白樺通り、柏通り、楓通り、桧通り、紅梅通り、竹の葉通り、松風通りといった寺院や樹木にまつわる風情な通り名がS20年代には存在していた。


廃業した伝説の鉄道

大成線(寿都営業所〜黒松内駅〜東川)
昭和25年11月21日開業〜平成10年4月1日廃止
★★★☆☆

《停車停留所》 寿都営業所 病院下 寿都役場通 陣屋団地 風力発電所入口 建岩 樽岸 湯別 追分 酪農会館 作開学校 南作開 白炭 中の川 本熱郛 町営住宅 黒松内中学校 黒松内駅 営林署前 しりべし学園 中里 貝殻 豊幌 会館前 上豊幌 東栄 来馬橋 大成郵便局 東川 (平成4年7月現在)

(コメント)
 もともとS25年から寿都鉄道(寿鉄バス、S43年廃止)が運行していた路線。同社が経営難に陥り、S43年から中央バスが跡を引き継ぎ、S53年合理化のため子会社のニセコバスに移管された。

 寿都〜黒松内間にはかつて寿鉄の鉄路[*註1]があり、寿都駅のあった高台(いまの役場付近)に中央バスの営業所や発着場もあったようだが、往時の遺構はあまり残ってないもよう....

 一方の黒松内〜東川間は人家まばらな農村部落。以前の終点は大成郵便局の真ん前だったが、S62年に東川まで5kmほど延び、民家ヨコに転回場が設けられたものの利用はそれほど芳しくなかったもよう。クルマ通りもほとんどなく、後志学園〜東川間は"フリー乗降制"が採られ、道路脇から乗車する人もまれにいた。

 ちなみに、この寿鉄バスには現ニセコバス長万部線の「本熱郛」から分離し、大成局〜静狩駅〜長万部駅に至る静狩線[*註2]という超レア線があり、しかも来馬口〜静狩間はいまの静狩峠ではなく、ヘアピンカーブの連なる『旧国道』を抜けて静狩市街に入っていたというからオドロキ桃の木である。

★[*註1] 寿都鉄道は大正9年10月24日から寿都〜黒松内間(16.5km)で軌道営業開始。南部後志唯一の交通機関として栄えたが、S37年の雷電道路開通やモータリゼーションの発達につれて営業成績が悪化しS43.9から休業、S47.4末で期限切れになるのを機に札幌陸運局に廃業申請を出し、52年の歴史に幕を閉じた。S45.12の事務所火災により鉄道・バスを含む全資料を喪失したのが"伝説"といわれる所以である。
★[*註2] S27年当時、寿都車庫前〜寿都駅前〜矢追〜大磯町〜樽岸駅前〜湯別駅前〜追分〜作開学校前〜中ノ川駅前〜本熱郛〜千代星内(チョポシナイ)〜大谷地〜熱郛駅前〜白井川〜赤井川〜大成郵便局前〜上来馬〜来馬口〜静狩駅前〜長万部駅前(58.4Km)の道程を1日2往復していたもよう。


ニセコ観光道路の大バトル

ニセコ線(倶知安駅前〜山の家〜狩太駅前)
昭和40年7月3日開業〜平成19年4月1日休止
★★☆☆☆

《停車停留所》 倶知安駅前 有楽園 学校平 二股 花園 御花畑 山の家 チセハウス 夫婦岩 昆布温泉 登山口 藤山 北栄 曽我 狩太駅前 (昭和40年7月現在)

(コメント)
 ニセコバスの設立経緯については諸説あるが、ニセコ&倶知安地区は本来は道南バスの営業エリアである。

 しかし、道南バスは戦時の道路荒廃で長らく休止していた昆布温泉線(狩太〜昆布温泉、昆布駅前〜昆布温泉)をS23〜24年にかけ正式に廃止、地元民の再開要望にも応じないため、戦時の国策で同社に強制統合(世にいう戦時統合)された後志温泉自動車[*註1]の有志が集まり、S25年ニセコ観光自動車(現ニセコバス)が設立され、運行を再開したという。(※再開には国鉄側や周辺町村の猛反対があった)

 そんな経緯もあり、この路線はS39年秋、全線開通したニセコ循環観光道路[*註2]に乗り入れようとニセコ観光バスのほか、倶知安〜国道5号〜ニセコ間をS26年から独占運行していた道南バス、倶知安・寿都・蘭越を営業エリアにしていた中央バス、S36年から比羅夫駅〜山田温泉(現ヒラフスキー場)間にシャトルバスを走らせていた国鉄バスの4社競願となり、陸運局の裁定でニセコ観光バス1社だけに免許が与えられた。

 これに意気消沈したのか、国鉄バスはその後ニセコエリアから撤退している....

 有楽園[*註3]は倶知安・旭地区にあった温泉旅館。経営難のためS41年廃業し、S44年跡地に隣接してオープンしたヘルスセンター羊蹄閣[*註4]に停名が変更された。また五色を通らず、ゲートのある二股から右折する林道があるが、これは青山温泉(旧小川温泉、現廃湯)〜硫黄鉱山(岩尾別鉱山)〜大沼の北側を抜けて岩内町に達していた旧メインルートである。

 ちなみに、S34年に昆布温泉〜山の家間にバスが通るまで、ハイカーらは狩太(ニセコ)駅〜昆布温泉間のバスで登山口(現アンヌプリ入口)で下車し、中腹の山の家[*註5]まで“見返り坂”と呼ばれる登山道をテクテク歩いていた。

 ニセコ観光バスはS43年、中央バスに買収され(ハイヤー部門はニセコハイヤーとして分離)、見返り坂の麓には中央バスがアンヌプリスキー場をS47年12月大々的にオープンさせ、今日に至っている。

★[*註1] S18年中央バスに統合された後志自動車株式会社(本社・磯谷村島古丹)とは別会社。
★[*註2] ニセコ循環観光道路(道々倶知安ニセコ線)は"ニセコをバスでひとめぐり"という構想で、S25年から小樽土現が開発工事を手がけた温泉と遊山をかねたデラックス観光コース。S33年昆布駅〜山の家まで完通、S39年秋に倶知安市街まで全線開通。昆布駅、ニセコ駅から昆布温泉〜湯本温泉〜チセハウス〜ニセコ温泉山の家〜倶知安に至り、沿道には春から秋にかけて百余種の珍しい高山植物が咲き乱れ、ニセコアン・ヌプリ(1,308m)やイワオ・ヌプリ(1,154m)などニセコ連山の眺望は雄大そのもの。山の家〜二股間の長大な狭隘区間は当時バスマニアを喜ばせていた。
★[*註3] 戦時中のS12年ごろ廃業した坂東温泉の旅館跡(町有地)を再ボーリング、温泉ブームのS34年秋オープンした微温泉の温泉旅館。旭ヶ丘スキー場(旧大仏寺スロープ)整備後はスキー客も多く宿泊した。
★[*註4] S44年12月、倶知安観光開発が旧有楽園跡にオープンした町民資本のホテル兼ヘルスセンター。大浴場、売店、レストラン、スキーヤーロッジなどを備え、S45年2月の倶知安国体には皇室関係者も宿泊したという当時としては町内一の豪華な施設。その後経営者が変わり「ホテルようてい」として営業していたが令和3年8月閉館。
★[*註5] 国鉄がS12年開設した温泉を備えた登山者向け宿泊施設(ヒュッテ)。いまも五色温泉郷バス停付近にあるが現在休業中。


中央バスが切り開いた観光道路

小樽・定山渓線(小樽駅前〜朝里峠〜定山渓湯町)
昭和53年7月1日再開〜平成20年4月1日廃止
★★★☆☆

《停車停留所》 小樽駅前 花園公園通り 住吉神社前 奥沢口 築港駅前 東小樽 朝里町 自動車学校前 新光町十字街 宏楽園前 木工団地 文治沢 温泉橋 朝里川温泉2丁目 温泉街 温泉坂上 朝里荘 朝里川温泉センター入口 魚留の滝入口 朝里峠 札幌国際スキー場 宝橋造林事務所 定山渓大橋 定山渓第一ホテル 定山渓湯町 ※6〜10月まで運行 (昭和55年12月現在)

(コメント)
 もともと中央バス前身会社のひとつ、小樽定山渓バス(小樽定山渓自動車道株式会社、通称・定バス)が自ら専用道路(定樽道路)を作って昭和7年9月15日に開設した路線。

 朝里水源地(現オタルナイ湖付近)と定山渓に遮断機を設けた見張口があり、同社が自社以外のクルマから通行料をとって経営したいわば道内有料道路のさきがけ。開業当初は20人乗りの小型高級車「レオ」5台で、起点の南小樽駅から小樽中学校(現・潮陵高校)裏山通り〜軍用道路〜朝里水源地に抜けていた。

 風光に富んだ沿線には戦前、同社が建設した峠の小屋(15人収容、朝里峠付近)と白樺小屋(30人収容)というスキーヒュッテが置かれ、「峠」「白樺」のバス停もあった。
 春香山登山口付近には昭和初期に秩父宮殿下も假泊した北大のヘルベチアヒュッテ(12人収容、山崎外二氏建設)がいまもあるが、その先に金の試堀所があり「金山」というバス停もあったもよう。

 戦前からバス停のあった魚留ノ滝(うおどめのたき)はかつて“近郊一の大瀑布”と謳われた小樽の隠れた観光名所。当時は滝見観音と魚籃観世音が安置され、金児杜鵑花の詠んだ句碑もあったが、終戦後は訪れる人もほとんどなく観音像や句碑も撤去されている...

 終戦後、道路が荒廃し運行不能となっていたが、S24年中央バスと小樽市、豊平町(のち札幌市に合併)が協議し、道路所有者の地崎組(ちざきバラ園で有名)から買収した形で一般道に開放。その後道道に昇格し、S29年10月から12年ぶりに小樽〜定山渓間バスが開通したが.... (つづく)


中央バス廃線倶楽部



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