中央バス最新NEWS

小樽管内 1910-40年代

1914(大正3)年〜1949(昭和24)年

【函江乗合自動車】函館―江差間を運転 (1914[大正3]年4月14日)


函館江差間乗合自動車(長15尺巾5尺7寸)は8日着函、試運転のうえ北海自動車組合長(恵比寿町28)より営業許可書を提出するが、この車は紐育サンフヲト会社の製造で12名乗り。指定駐車場は本郷村、中山峠、鶉村、俄虫村、江差町の5か所。函館〜江差間の賃金は1人につき3円。

小樽自動車計画 (1914年5月16日)


小樽の中村清治、倉田ほか2〜3氏の発起による自動車会社株は目下募集中だが、その内容は1株100円として100株の予算で、期限は大正4年3月末日の予定だが、期限内といえども総株成立の場合は直ちに1株につき75円の払い込みをもって自動車1台を購入し、区内を中央停車場通りを中心に二分して色内、稲穂その他の大通りのみを往行し、1区10銭くらいの単価で乗合を開始する計画という。

【小樽自動車】乗合自動車開業 (1914年9月5日)


小樽区稲穂町14番地(中央駅下)の小樽自動車株式会社は、5日から手宮〜奥沢間で乗合自動車の営業を開始する。停留所は各区域ごとに置いてあるが、要所要所に臨時停留所を設けており、車両には行先および通過の道筋を掲げてある。

 乗車賃は6区制で1区5銭、2区9銭、3区12銭、4区15銭、5区18銭、6区20銭。貸自動車は1時間5円の割。乗車券は車両内で車掌が取り扱っている。
 ※この会社は資本金4千円で大正3年8月20日に設立(代表は堺町1の佐野徹三、山田町7の倉田嘉橘、相生町28の中村清治)したが、経営不振のため2年後の同5年10月15日に解散し、貸自動車、貸切バス専業になった。(2006年刊「小樽歴史年表」、2013年刊「都道府県別 乗合自動車の誕生 写真・史料集」ほかより)

明春から自動車運転 (1914年12月11日)


余市停車場〜???間の市街交通は従来10数台の馬車に頼っていたが、来年から同区間の自動車運転開始を計画する者があり、すでに東京で買入れ契約をしたようだが、該当の道路は狭隘不完全だがすべて障害を排し、明年4月から実行する予定。

【小樽乗合自動車】小樽に乗合自動車 (1921[大正10]年6月3日)


このほど成立した小樽乗合自動車合資会社(小樽区稲穂町、代表者斎藤菊太郎)ではいよいよ自動車の製作竣成し、各所に停留場もできたので、認可しだい早速営業開始することになった。

 この乗合自動車は現在東京でやっている乗合自動車の型に倣ったもので、優に12、3名は乗れるちょうど電車の車体に似ており、区内を4区に分け各所に停留所を設け5分位おきに間断なく運転する。そのうえ車掌までが東京式に洋服姿の美人を採用する事とした。

 料金もまた非常に安く、1区がわずか5銭だから従来のガタ馬車よりも安いというから、これで大打撃を受けるのが乗合馬車業者などで、営業開始の暁には小樽の交通機関上に一大革命をきたすことになろう。
※この会社は本社を稲穂町西4丁目10番地に置き「青自動車」「青バス」と呼ばれた

乗合自動車スタート! (1921年7月3日)


小樽の稲穂町花園町大通に3日から乗合自動車が開通する。運行区間は色内川筋〜若松町角間。赤く塗ってある電燈柱はすべて停留場となり、停留場以外はいっさい留まらず、満員の場合は通過することもある。料金は15銭均一、ただし学生正帽者は10銭。回数券は20回分が2円60銭、40回分が5円、60回分が7円20銭。

【最上吉蔵】小樽自動車会社を組織 (1921年7月30日)


最上吉蔵氏(小樽区稲穂町7丁目5番地)は今回、小樽乗合自動車合名会社を組織し目下出願中だが、事務所を緑町1丁目13番地に置き、12人乗りフォード箱型10台を購入し、目下活動中の乗合自動車合資会社に対抗しようとしている。出願区域は次の通りだが、これらの調査に関し、道庁から小樽警察署に、さらに同署から区役所に照会があった。
※この会社(小樽市街自動車株式会社)は1921年9月に開業、本社を稲穂町東3丁目23番地に置き、「赤自動車」「赤バス」と呼ばれた

赤青両自動車、運転手らが大乱闘 (1921年10月21日)


ことしの夏以来、相次いで起った小樽赤青両乗合自動車会社は営業上競争的立場にあるが、21日の夜11時過ぎ、新富町龍徳寺前の終点に赤自動車の藤田運転手(28)が客待ちしているところへ青自動車が停車したので、藤田が青自動車の平野運転手(18)に「お前の方の眼鏡をかけた運転手は生意気な奴だな」と悪罵したのが始まりでケンカしているところへ、ちょうど赤自動車2台が乗り合わせ、藤田に加勢して平野を散々に袋叩きにした。平野は帰社してこれを仲間に告げ、21余名一団となって稲穂町東3丁目の赤自動車会社に押し寄せ、両社入り乱れての大乱闘になった。

本道初のオンナ自動車運転手 (1922[大正11]年4月29日)


小樽市街自動車株式会社の女車掌、飛田トラ(21)は今回女自動車乙種運転手の免許状下附をその筋に願い出たが、女運転手はトラがいわゆる本道における嚆矢である。

 トラは昨年、小樽乗合自動車会社の設立とともに女車掌となり、のち市街自動車会社に転じ、昨年10月より東京自動車学校の校外生となり講義録を修了するとともに、本年2月東京に出て前記自動車学校専修科に入って技術を習得、帰樽再び市街自動車会社に入り運転手兼車掌としての勤務のかたわら実務を見習いつつあったが、このたびいよいよ運転手を出願したものである。

乗合自動車を合併 (1922年8月3日)


小樽市街を運転する乗合自動車は「市街自動車」と「乗合自動車」の両社あり、いずれも相当利益を収めつつあるが、とかく競争に陥り円満な発展を遂げていないため、3日両社幹部は小樽商業会議所に森会頭を訪問し、合併またはその他の方法による調停を依頼した。

乗合自動車の合併本決まり (1923[大正12]年3月24日)


本年の稀有の大降雪で例年融雪期にみる小樽市内道路はいっそうヒドい状況だが、そこへ大きな図体の乗合自動車が前後から疾走するので通行人は全く命がけ―。赤青両自動車会社でもさすがに気の毒に感じたのか、その筋の注意もあったので、23日から向う1ヶ月間運転を中止することになった。

 ちなみに両自動車会社では、かねてからウワサされていた合併問題が熟し、近く具体化される運びになったが、資本金を100万円として大拡張することがほぼ決まった。

【小樽市街自動車】合併1周年祝賀会 (1924[大正13]年6月8日)


小樽市街自動車株式会社(小樽市稲穂町東3丁目11〜12番地)の合併1周年記念の祝賀会は8日午後6時から高田屋で開かれ、同社合併後の営業成績はきわめて良好で、大正12年度は1割の配当となり車体権利金のため1万円の償却となった。現在車体18台、社員60余名を有し、1台1日の走行哩(マイル)数は90哩、収入は1日平均70円、1哩当り78銭で東京乗合自動車と比べて成績良好であるとのこと。

【旭自動車】乗合スタート! (1927[昭和2]年5月6日)


函館市の旭自動車株式会社はこのほど貸切専用車7台のほか、22人乗りの乗合専用車3台を増車して運転を開始した。

【小樽乗合自動車】緑町線スタート! (1927年8月1日)


小樽乗合自動車は手宮〜稲穂花園大通り〜若松を貫通する幹線のほかに、今春から色内川を上って長橋に至る支線を開始したところ予想外の1日500〜700人の盛況となり、1日からさらに緑町線の運転を開始することにした。第一火防線北門銀行角〜裁判所前〜正法寺門前までを1区として乗車賃5銭とし、さらに火葬場に曲がる洗心橋を終点として10銭を徴することになり、車台を増設、間断なく運転するので通勤者にとって大変便利になる。

【余市乗合自動車】余市駅―富沢町開業 (1927年10月23日)


余市町では従来の乗合馬車組合の有志などが12名で余市乗合自動車合名会社を創立してフォード27年式1台を購入したが、門脇竹次郎氏が代表者となり、この23日から開業。とりあえず22日夜千代の家で開業披露宴を催した。

 運転区間は余市駅前から富沢町の古平街道四角までで、賃金は1区間金10銭、2区間15銭、3区間20銭、4区間30銭。運転区間は次の通り。

【小樽市街自動車】南廓に新線 (1928[昭和3]年4月10日)


小樽市街自動車会社は10日から南廓に新線を開始した。入舟町交番から南廓まで10銭、7丁目までは5銭、7丁目から南廓まで5銭。

【小樽市街自動車】運転系統の変更 (1928年12月1日)


小樽市街乗合自動車は1日から運転系統を次の通り変更する。

【小樽市街自動車】手宮本線きょうから開通 (1929[昭和4]年4月10日)


小樽市街自動車の第二大通り手宮本線は10日からすべて除雪道路を運転する。第一大通線は明日から、緑町線は2、3日中に運転の見込み。

 また雪解けとともに諸施設を刷新し、枢要な乗換場所にはしゃれた乗客待合所を設けるほか、停車場の増設、乗り心地の良い優良車購入などに腐心しており、従来とかく非難のあった乗客に対する車掌の言葉使いや取扱いぶりも最近全く改まり好評を得ている。一方、休止中だった各線とも漸次復旧しつつあり、5月からは南廓線、6月中には熊碓線を復活運転する計画。

小樽―定山渓間自動車創立計画 (1929年6月21日)


昨秋来計画を進めてきた小樽定山渓自動車道株式会社の創立事務はその後着々と進捗し、小樽では今井孝、本間保次郎氏ら超高架電車発起人諸氏が中心となって道庁ならびに帝室林野管理局に対し諒解運動を試みてきたが管理局では大体認可の意向で、創立事務所ではただちに技師、数十名の人夫をもって実測に着手し、近く実施計画の作成にかかることになった。

 同社の計画では、小樽水上警察署前を起点に花園町第二大通〜住吉神社前〜庁立小樽中学前〜小樽市水道朝里川水源地行道路〜小樽内川流域沿い〜定山渓定山園上手に至るもので全哩程20哩7、道路幅を4間とし、うち2間余りを舗装することになっている。会社は資本金40万円でハイヤー5台、乗合5台で小樽、定山渓から各定時に発車させるが、大体40分くらいで到着することができるので小樽から定山渓へ日帰りの遊覧が楽にできることになり非常な期待をかけられている。なお会社では専属のホテルを経営する計画であり、それぞれ調査中だが、同社の計画は大体来議会に提出される自動車専用道路法に準拠したもので、全国2番目の認可が得られる予定。発起人は本間保次郎、木村源六、木立茂、加藤豊彦、京坂重雄、板橋孝造、本江慶太郎、倉内吉太郎、松宮石丈、今井孝の10氏。

【小樽市街自動車】バス賃値上げ (1929年7月1日)


小樽市街自動車は道庁に認可申請していた賃金改正が今回認可となったのでいよいよ1日から実施する。今回の改正は本線2区間までを10銭、4区までを15銭均一とし、別に支線緑町南廓線および長橋線は営林区署前まで延長し、いずれも往復15銭均一とする長距離逓減法を採ったもので、従来の短距離より長距離乗客が多いのに照らして、将来実行しなければならない全線均一制の前提として行ったもの。

 この結果、最短区間乗車賃5銭が廃止されたため値上げになるとして、早くも労組では交通機関の本旨に反すると反対気勢を挙げていたが、これに対し会社側では「今回の改正は市民の唯一の交通機関たるの本旨に基づいて行ったもので、短距離乗客が減少する結果、従来より利益減収しても増収することはないだろう。もし幸いに増収することがあっても諸般の施設に一段の改善を加え、都市交通機関として一層の効用機能を発揮することに努める」と弁明した。

小樽―定山渓間競願に (1929年7月7日)


小樽定山渓間自動車株式会社(小樽の木村源六氏ほか数名発起)の乗合自動車会社設立の計画に続き、本間保次郎氏発起人を代表とする認可の申請が小樽署に提出された。余市、札幌からも同一路線に同種営業の競願者があるので、認可まで相当競争が行われるとみられている。

 この順路は小樽南浜町桟橋(起点)〜中央通り〜第二稲穂、花園両大通り〜中学校〜軍用道路〜熊碓二股〜定山渓に至るもので、乗車賃金は片道1円60銭、奥沢入口から1円50銭、水源池から1円。発車時間は次の予定。

【小樽市街自動車】熊碓海水浴行きを開始 (1929年7月20日)


小樽市街自動車は20日から熊碓海水浴場行き割引自動車の運転を開始した。乗車賃は市内どこからでも往復25銭、若松町の終点からは往復15銭。熊碓青年団では海水浴場に男女温浴場付きの休憩所、貸舟、浮袋などを設備。往復切符附所持のものに限り料金割引優待する。なお期間中、水泳競技会、女車掌??競争、宝探しなどの余典を催す。

【長谷藤藤二郎】函館駅―小安間免許 (1929年8月16日)


鉄道省は16日、かねて各府県から申請中の自動車営業出願に対し、次の通り免許または認可に支障なき旨を各地方長官あてに通牒を発した。

【小樽市街自動車】山手循環線スタート! (1929年8月21日)


小樽乗合自動車会社(※原文ママ)は21日から運転系統を大幅に変更、従来の第二大通線を廃し、稲穂町大国屋前〜入舟町〜南廓〜洗心橋裁判所前通り〜岡本病院前〜大国屋前に至る山手循環線を開始した。従来の若竹町奥沢入口行きは廃し、9分ごとに発車する。

【小樽市街自動車】第一艦隊入港により臨時運転 (1929年8月27日)


小樽への第一艦隊入港につき、小樽市街自動車会社では艦隊碇泊中とくに車両を増発し、27日から30日まで小樽駅〜桟橋間を臨時運転する。賃金は片道5銭。また艦隊乗組員は全線5銭均一の割引をして優待するほか、車掌に申し付ければ小樽市内の乗合自動車線路案内図を無料進呈する。なお地方からの軍艦観光客の便宜をはかるため、各停留場前や市内主要個所に社員を出張して乗降の案内をする。このほか定山渓鉄道では第一艦隊乗組員に対し、27〜31日まで2、3等運賃は片道往復とも3割引きを行う。

【後志自動車】蘭越―下湯別間免許 (1929年11月27日)


鉄道省は27日、かねて各府県から稟請中の自動車営業出願に対し、免許または許可支障なき旨を各地方長官あてに指令を発した。

朝里―定山渓間自動車道認可 (1929年12月28日)


内務省は28日、小樽市定山渓自動車道株式会社が出願していた自動車専用道路開設を許可した。これは小樽郡朝里村地内〜札幌郡豊平町定山渓間(12哩63鎖)の自動車専用道路を開設して旅客、貨物の運搬、その他の事業を経営しようとするもので、小樽、札幌付近において景勝の名高き定山渓温泉への最短距離の連絡をはかるもの。当初は小樽市若松町を基点に20哩70鎖にわたる計画だったが、基点より朝里に至る8哩7鎖は既成道路の幅員を広げ、これに充当しようとするもので、この幅員は控除し12哩63鎖の延長にわたり認可された。工事概況は幅員24尺、工法砂利道、工費40万円。

【小樽定山渓自動車】小樽―定山渓間を起工 (1930[昭和5]年1月24日)


小樽有志者がかねて計画中の小樽定山渓自動車株式会社は、去る19日道庁より認可指令が来たので、融雪期を待って札幌土崎組の手でいよいよ起工することになった。区間は住吉神社前〜定山渓温泉間(20哩7)、資本金40万円で本社を定山渓に置き、貨客5台の自動車で経営する見込み。発起人は本間保次郎、木立茂、加藤豊彦、今井孝、木村源六、松宮石丈、高坂重雄、本江慶次郎、板橋孝造、倉内吉太郎の諸氏で、小樽側は例の高架電車の人々である。これが完成すれば、小樽定山渓間は1時間足らずで行かれる事になる。(※註、高架電車とはモノレールのこと)

【小樽市街自動車】宴会自動車を計画 (1930年1月31日)


小樽市街自動車会社(小樽バス)では新年度、新規事業の一つとして宴会自動車新造の計画を立て、その新造車ならびに内部の設備など調査計画中である。

 宴会自動車というのは車内で宴会を開く、すなわち移動式宴会。客の注文により花の小樽公園、新緑の水源地、海の熊碓さては塩谷などへ自動車でご馳走と酒と客を乗せて行き、景勝の地に止めて黄金の酒を呑み交そうという1930年式のモダンな趣向である。客は1車について5名ないし7名、それにお酌を2名くらい配し、1人前3円ないし5円くらいであげる。また同会社は従業員慰安の目的で女車掌らの音楽隊を設ける計画も立てている。四六時中、塵埃とガソリンの臭気とエンヂンの騒音の中に生活している女車掌に対し、音楽で心からの慰めを与えたいというらしい。

 この2つの計画は近く三浦支配人が上京して各方面の調査をしたうえで実現する予定だが、宴会自動車の出現はたぶん陽春5、6月頃になるだろう。

【小樽市街自動車】小樽バスの新運転計画 (1930年4月9日)


3府5県乗合バス営業状態を視察し、このほど帰樽した小樽市街乗合自動車の三浦支配人は、内地の進歩状態を参考に小樽も大改善する計画。

 現在の車に15台を新造して1日40台を運転する予定で、改良車は6月上旬から運転し、徐々に全て改良するが、認可になりしだい運転系統も次の2幹線5支線に変更する予定。本年は会社10周年に相当するので、記念のために移動宴会自動車は花見までに、福引券付き回数乗車券発売は7、8月ごろに実行の予定で、また本社も約50坪の事務所会議室を新築し、面目を一新する計画で目下設計中である。

【小樽市街自動車】色内―手宮間免許 (1930年6月4日)


鉄道省は4日、各府県から稟請中の次の自動車営業請願に対し、免許の旨を地方長官宛てに指令を発した。

【吉田寅男】江差―大野間免許 (1930年6月23日)


鉄道省は吉田寅男氏が出願していた次の自動車営業区間に対し23日、免許または許可支障なき旨を各地方長官あてに指令を発した。

【小樽市街自動車】全区10銭均一に (1930年7月1日)


小樽市街自動車では1日より区間制を改め、懸案だった全線10銭均一制を実施する。またこれと同時に山手循環線を延長して、さらに大国屋前〜第一火防線〜本局〜色内大通り〜手宮郵船会社前まで延長して「山手色内線」とするほか「中央線」を新設し、下記の6路線となった。この結果、従来の9哩8分より13哩に延長され、停留場も増設し乗り換えは何回でもさしつかえない。また子供連れ乗客は1人までは無費、2人ごとに1人分の料金を受けることになった。

【小樽市街自動車】塩谷海水浴場バス運行 (1930年7月19日)


小樽市街自動車株式会社は19日より塩谷海水浴場への市街バスを運転する。小樽市内全線より往復40銭均一、朝7時より夕9時まで本社前発車。本社特設無料大休憩所(温浴付き)あり。

【小樽市街自動車】郵便局―信香町間 近く開設 (1930年8月13日)


小樽市街自動車では昨年来、運転路線の増加、乗車賃金の全線均一断行など着々とサービスの充実に努めているが、港町、堺町の国道筋は未だ開通を見ないので、港堺町会長の足立敬次郎氏は町会を代表して13日同社を訪れ、現在運転している郵船会社前〜郵便局線を延長し、堺町〜港町〜有幌町〜信香町に至る新線の開設を陳情したところ、会社側ではおおむね町民の希望に沿うことに決め、同線はまだ認可をうけていないので近日中に三浦支配人は同町会の陳情書を持って道庁に赴き、差し当り臨時線として認可を得て遠からず運転を開始する予定である。

【及川八三郎】留寿都―喜茂別間の営業認可 (1930年8月27日)


及川八三郎氏が出願していた自動車営業に対し、鉄道省はこのほど次の通り許可した。

【小樽定山渓自動車道】開通は7月ごろ (1931[昭和6]年1月14日)


小樽の今井孝、札幌の地崎晴次ほか諸氏によって計画された小樽定山渓自動車道株式会社はことし7月開通の予定で準備を進めているが、開通の暁は小樽〜定山渓間(3里半)を40分程度で運転し、料金も鉄道賃金同様とすることに内定したが、定山渓では本線開通と同時に小樽公園通孔雀バーと連絡し、階下を待合室とし無料自動車券を発行するようである。

手宮―札幌―岩見沢など3線不可 (1931年2月11日)


小樽市参事会は10日午後3時から開かれ、各方面から道庁に出願中の余市〜小樽駅間、余市〜小樽築港間、手宮〜高島間、手宮〜札幌間、岩見沢間の自動車営業に関する道庁の諮問を協議したが、現在市に乗合自動車経営の計画もあり、市内に多くの営業線のあることはいかがかという意見が多数を占め、道路管理者の木田川市長は不賛成の答申をする模様である。

【小樽バス】停留所の新設、改称 (1931年3月1日)


小樽バスでは1日から次の通り、停留所の新設と改称を行う。なお、通勤券を1ヶ月3円に低減指定区間はいずれの順路を採るも差し支えないことに改正した。

小樽バス増車 (1931年5月7日)


小樽市街バス買収問題進展の折柄、バス会社では大阪フォード工場に注文中の新車体3台が7日小樽へ到着、中旬頃さらに3台到着する予定で、15日頃より市街線に運転を開始する。

小樽バスの買収交渉 (1931年5月23日)


小樽市街自動車株式会社(資本金10万円)買収問題は小樽市民の関心を集めているが、両者の主張価格に相当の隔たりがあること、政党政派の関係やその策動によって感情問題が内部に潜在していること、買収当局が強硬的態度で1路2営業主義を仄めかして強制を試みていることなど多くの難問題に直面し、いまのところ成否はすぐには判断できない状態にある。

 この春、同社が買収交渉に先立ち増資を断行したことは買収に備える策略として非難あるが、会社の内容および営業成績は必ずしも不良ではなく、昨年度は5万1千円の利益をあげ、年1割2分の普通配当をなしている。また一方で、これに対し高率配当であるとの非難はある。

 現在同社の株主69名、旧株1千1株50円、新株4千1株12円50銭。株の市価売買値は旧株75円、新株19円となっているので、同社が買収を渋っているのは容易に理解できるが、買収側の起算点は最低25万円、被買収側は35万円を計上して各自その見解を異にしているので、果たして本交渉がどの程度まで接近できるかが注目されている。

小樽バス買収問題渋滞 (1931年6月25日)


小樽バス買収問題に関し、市理事者と会社交渉委員との意見は既報のごとく、両社会見の結果行き詰ったバス買収交渉の上に曙光を見出するため期待のうちに25日、会社委員の中河原社長は病気のため出席せず、新谷、猪俣両氏が非公式に市役所に木田川市長を訪問したが、例によって双方とも肝の探り合いで「いくら位に買ってくれるんですか」「どの程度でお売りになるお心算ですか」などと、とうとう急所には触れずに「いずれそのうちに又お会い致しませうで…」と不得要領のままお別れとなった。次の会見日は未定とある。

【小樽郊外自動車】小樽―余市間の営業認可 (1931年8月13日)


鉄道省は13日、かねて北海道庁から稟申中の小樽郊外自動車株式会社(発起人:石動幸太郎ほか6名)の自動車営業出願に対し、次の通り同長官あて認可の指令を発した。

【小樽郊外自動車】問題のバス許可 (1931年8月24日)


小樽〜余市間の自動車路線営業許可は24日、小樽郊外自動車会社に許可の指令が到着した。指令の要点は小樽駅前〜余市大川町間の路線営業の許可だが、小樽駅前〜小樽市内長橋間は主力を注ぐ営業であれば許可しないというもの。

【下海岸自動車】自動車営業免許 (1932[昭和7]年1月28日)


鉄道省は28日、各府県から申請中の自動車営業出願に対し、次の通り各地方長官宛てに営業免許の指令を発した。

【小樽市営バス】新線を出願 (1932年2月2日)


小樽市営バスが出願した次の新線を、2日小樽市参事会に諮問した。

小樽―定山渓間は6月スタート予定 (1932年5月10日)


小樽住吉神社前〜定山渓間の乗合自動車会社は、昨年道路開発に従事し竣工を急いでいたが、遅くも今月中には竣成するので、いよいよ6月15日の札幌神社祭当日から開通の予定である。

 定時に定樽間を午前5回、午後5回の往復。片道1人1円50銭、往復2円50銭、定樽間の所要時間は哩5分。往復自動車は札幌自動車合資会社によってこのほど運転、賃銀片道1人1円80銭で1日5回往復している。

【小樽郊外バス】小樽―塩谷間を運転 (1932年5月30日)


資本金2万円で4月10日開業した小樽郊外自動車株式会社(木村松太郎社長)は現在、塩谷〜小樽間で、いわゆる銀バス2台運転している。

【小樽郊外バス】熊碓線は不許可 (1932年7月28日)


小樽郊外バスでは熊碓線の運転許可を出願中のところ今回不許可になった。余市終点は大川町だったのが、今後日曜祭日に限って沢町まで延長許可された。

【定山渓自動車道】小樽―定山渓間をスタート! (1932年9月15日)


交通界のエポック・メーキング、小樽と定山渓の山道をつなぐ直通道路は、地崎晴次、加藤豊彦、木村源六、今井孝、本間保次郎の五氏が小樽定山渓自動車道株式会社(小樽市港町22番地)を組織し、30余万円の巨費を投じ地崎組の手によって工事を進めていたが、4ヶ年の歳月をかけ去る8月ようやく完成、今回営業認可の指令に接し、9月4日第1回試運転が行われ、15日から営業を開始した。

 使用するバスは100馬力、命数3000万哩、20人乗りの高級車セルバ塗装の「レオ」5台。小樽発は8:00〜20:30まで、定山渓は7:30〜21:00終発まで、目下は車台の都合上1日8往復。片道1円50銭、往復2円50銭という安い乗車賃である。起点・南小樽駅を出発し、庁立小樽中学校の裏山を抜け、軍用道路を走ること約30分で朝里水源地につく。ここから会社の専用道路(18哩1)に入り、朝里川の清流を左に見上げる急坂をバスは平気で走り、石狩と後志の国境(海抜2776尺)を越えて、いで湯の里定山渓に向かう。全行程24哩半。乗心地は極めてよく、バウンドの調節なぞは遠くハイヤーも及ばない。橋の数は23といい、所要時間は1時間半。地崎氏に話によれば今後1、2ヶ所へ若干のバラスを入れれば時間も1時間に短縮できるという。

【定山渓自動車道】小樽―定山渓バス市内進出 (1932年9月16日)


定山渓自動車道株式会社の専用道路は15日から営業開始したが、同社は「貸切」の名目で市民の便を図るため大型バスを市内のどこからでも発車するよう出願したので、市内タクシイ業者はこれは大変と小樽署に対し「会社が専用道路をどう使おうと勝手だが、市内にまで延長されては我々業者の営業が食い込まれる。ただでさえ不況の折柄だから、会社の発着所を南小樽駅前にしてもらいたい」と陳情した。

札樽間のバス、省営とほぼ決定 (1932年9月29日)


来年開通予定の札樽間の国道に対し、バス路線認可の出願は120余件にのぼっており、権利金だけでも20万円といわれているが、昨今の不況による貨客の減少や自動車の発達による鉄道省の減収も少なくないので、主要・有望路線は鉄道省自ら経営しようという方針をもって着々調査を進めているが、札樽国道は最も有望な路線であり、本道鉄道収入に大きな影響もあるので、省営とすることでほぼ決定したと某所に情報があった。

【小樽バス】運転時間制限を実施 (1932年11月1日)


小樽バスは1日から始発を6時半、終発を23時として朝夕30分間短縮を行うほか、運転系統の一部に運転時間制限を実施する。

【小樽定山渓自動車】来春から経路変更 (1932年11月13日)


ことし9月に開通した小樽〜定山渓間バスの路線は、小樽〜朝里水道貯水池間はだいたい水道の道路を利用しているが、朝里村では発展上、朝里本線(小樽駅前より文治沢記念橋に至る)迂回方について自動車会社と交渉していたが、会社側も朝里村の希望を受け入れ、小樽市から国道新線を経て朝里校前を右折して朝里を通過、文治沢を経て同会社の専用道路に経路変更する予定で、来年融雪早々、本線改良工事に着手する事に内定した。

赤字に悩む札鉄、省営バス計画 (1932年11月23日)


札鉄局では旅客貨物収入の赤字回復に腐心しているが、来年度に好転気勢を示す材料として省営バスの計画を立て、現在各地に向って鋭意調査中だが、省営バスの運転箇所としては札樽間はもちろん、現に民間の貨物自動車において鉄道運賃より高率で好成績を収めている旭川〜永山、留萌〜増毛、帯広〜広尾などの各区間に最初に着手する模様である。

【成田義孝ほか】七飯地区の免許&却下 (1932年12月6日)


鉄道省はかねて各府県から申請中の次の自動車営業出願に対し、免許または却下する旨を各地方長官に通牒を発した。

【岩越】乗合自動車計画 (1933[昭和8]年1月31日)


岩越客?輸送組合(林貫一代表)は蘭越〜岩内新見間の乗合自動車を計画、このほど函館運転事務所へ出願した。距離は2里13丁。

省営札樽バス反対を陳情 (1933年3月25日)


北海道自動車協会小樽支部役員会では25日、鉄道省営札樽バス反対陳情の議案を審議した結果、省線バスには札幌支部と協力、民業圧迫をたてに反対気勢を醸成、鉄道省その他関係各官署にそれぞれ陳情書を出した。

札樽省営バス、民間業者が猛反対 (1933年4月7日)


鉄道の小樽札幌間自動車経営計画に対し、小樽バスなど札樽自動車運輸営業者100余名が連名して札幌鉄道局長あてに反対陳情書を提出した。

 それによると、失業救済工事として、はたまた産業開発自動車として昭和6年度に起工し、現在工事中の小樽札幌間自動車道はこの夏竣成の予定だが、早くも鉄道省はここに着目し、ことし6、7月頃この道路を利用して手宮〜小樽〜札幌〜白石間の乗客貨物自動車を経営しようとしているが、札樽両市自動車業者の被る被害は甚大であり、この計画の取りやめを求める―といっている。

【小樽郊外自動車】ニシン漁見物バス (1933年4月7日)


小樽郊外自動車会社は7日から毎日、塩谷往復鰊漁見物バスを運転する。料金は1名往復80銭で、同村春野屋の鰊料理(5品)を接待する。

【渡島海岸】砂原駅―相泊間免許 (1933年5月20日)


道庁保安課は今回、渡島海岸株式会社から出ていた次の乗合、貨物自動車営業を免許した。

【小樽定山渓自動車】冬季運休線を再開 (1933年5月28日)


小樽定山渓自動車会社の小樽〜定山渓間バスは冬季運休中だったが、28日から本年度の運転を開始した。沿線の石狩後志国境付近はまだ所々に積雪があり、新緑と白雪の交錯に車窓風景は恵まれている。なお同社では今夏ヘルベチヤヒュッテ付近に天幕(テント)村を設け、貸テントを開始し、莚、毛布、炊事道具を無料で貸し出す。

小樽の認可路線、両社競争へ (1933年6月9日)


小樽定山渓自動車、小樽市街自動車、小樽郊外自動車の3社に対する自動車営業免許が9日付で次の通り発令された。これらの新線を見ると、オタモイの霊地をめぐる市街、郊外両社の2路線において、市街の方は地蔵尊上までという最も便利な線を獲得し、しかも市内のどこからでも接続できるのに反し、郊外の方は山屋温泉前を経てオタモイ入口に行くため地蔵尊まで4、5町徒歩地帯が多くなるワケで、両社の競争は相当激しくなると見られている。

【小樽郊外自動車】オタモイまで延長 (1933年6月18日)


小樽郊外バスは小樽〜余市間を運転しているが、さらにオタモイ線山谷温泉方面の認可を受け運転開始する予定。

【小樽市街自動車】オタモイまでバス開通 (1933年7月4日)


小樽市街自動車株式会社(小樽市稲穂町大通り)はこのほど、北海第一の霊場、雄大明媚の絶景である郊外オタモイへ向かうバスを開通させた。日曜、祭日、縁日は市内から直通する。

【小樽市街・郊外バス】海水浴客の争奪戦 (1933年7月6日)


小樽郊外の海水浴場をめぐって小樽市街、小樽郊外両バスが早くも熾烈な競争を始めた。郊外バスではことし塩谷線専用6台、蘭島専用2台、余市定時4台の計12台に増車して浴客を集めることになったが、これは昨年、車両不足で市街バス塩谷臨時路線が許可された苦い経験に基いたもの。

 一方の市街バスは、ことしも昨年通り臨時路線を出願したところ、7/15〜8/31までの土曜、日曜、祭日、土用丑の日に限って運転を許可された車両は7台が限度であり、昨年の連日車両無制限に比較すると市街バスに対する認可はかなり開きがあるが、その理由は車両不足のため郊外に全力を注げば市内線がなおざりにされること、郊外バスの増車などがあげられる。

 郊外バスでは「市街バスに対する不認可」を運動し続けており、海水浴場開きとともに両社の競争は相当激化するものとみられる。運賃は両社とも片道20銭、往復35銭。塩谷線のほかに東邦海水浴場熊碓線も現在出願中なので、この線の競争も展開されるようである。

【小樽郊外自動車】海水浴場行きバス (1933年7月22日)


"銀バス"で知られる小樽郊外自動車株式会社(小樽市稲穂町西6丁目)は浴客の便をはかり、塩谷、蘭島両海水浴場行きのバスを毎日10分毎に運行している。料金は塩谷海水浴場行きが小樽から往復大人35銭、小人25銭、10回券は大人2円50銭、小人1円80銭、蘭島海水浴場行きは小樽から往復大人50銭、小人35銭、10回券は大人4円、小人2円70銭。(※蘭島海水浴場はかつて北海道一の海水浴場といわれていた)

【小樽定山渓バス】スマートな新車 (1933年8月17日)


小樽定山渓バス会社では従来の大型バス5台、ハイヤー2台のほかに1933年型フォード、コムスーシャル、シャシー8人乗りバス2台を配置した。銀灰色瀟洒な車体、時に応じてオープンにされる幌型で、オープンになるのは我が国でも最初の試み。ドイツ新型車のカタログから同社が特に抜粋して設計した自慢の新車で、秋観楓のシーズンを狙って殺到する観光客を予想した増車である。地崎支配人、木村専務は「このあいだ大谷光暢師、シャム公使、牧野次官がこの沿線を通られて、仲々良い景色だ、函嶺に劣らない。もっと宣伝したらどうだと仰ったので、うんと気張って購入したワケです。これでお客さんに不自由はかけません…」と採らぬ狸の皮算用ながら大した意気込みであった。

(写真:小樽定山渓バスが購入した新車)

札樽間省営バス、速やかに運転の事 (1933年8月26日)


近く開通する札樽国道を走る札樽間省営バスに関して佐上長官は26日付で鉄道大臣に対し、省営バス運行に関して反対運動を行う業者もいるが、一般公衆は省営バス運行を希望しているので札樽間の交通の実情に鑑み、国道竣工の暁には速やかに省営バスを運行してもらいたいと文書で申し述べた。

札樽間民営バス却下で横ヤリ (1933年9月17日)


札樽国道の道路関係土地所有者50余名が会社を組織し、札樽間の乗合自動車経営を出願したが却下されたので、これら道路土地関係者50余名は道路使用には応じるが、寄附承諾書に捺印していないのを盾に寄附の意志を翻し、相当価格をもって売却しようとしている。このため本年度竣成予定だった札樽国道は、貫通竣工にはしばらくかかる模様である。

 これを知った沿道関係民は、札樽国道が貫通するまで省営バスを銭函折返し運転で営業開始するよう当局に陳情している。

【広男自動車】万年橋―昭和間免許 (1933年9月22日)


鉄道省はかねて禀請中の自動車営業出願に対し、次の通り22日免許の指令を発した。

【小樽バス】新富線が開通 (1933年11月2日)


小樽市バスの新路線「新富線」が2日から開通する。路線は現在の若松終点から連絡、若松3丁目より左折、真砂橋を渡り新富町を右折、量徳寺前を経て奥沢に至るもの。

【小樽市街自動車】手宮の交通網完成 (1933年11月20日)


小樽市の手宮〜長橋間循環バス運行問題は手宮繁栄策として長年の懸案だったが、市街自動車会社もいよいよ手宮長橋間循環線を実施するための手続き中だが、手宮町有志は狸小路から北廓(ほくかく)に通じる5間幅約400間の野島氏私有道路を市に寄付すべく了解を得たので、この手続きが完了すれば市街バスが手宮〜北廓間のバスを路線を運転することになり、手宮の交通網が初めて完成することになる。

 また手宮から長橋に至る道路は狭隘な山道があって交通上不便をきたし、利用価値を減殺していたが、失業救済事業のひとつとして今月1日から3800円の予算で8間に拡張するため着手した。

省営バスの小樽市内運行OK! (1934[昭和9]年3月31日)


ことし融雪後に開通する省営バスの小樽市内運行について、鉄道局よりこのほど小樽市にその可否を問い合わせてきたので、30日市参事会において審議の結果、市内運転異議ナシということに決定した。

 省営バスの市内運行については民営業者側からの反対に対し、港、堺町々民からは国道筋運行の陳情があったものであるが、今回鉄道局からの照会によれば築港駅より勝納山ノ上本通りを経て入船川に下り、港、堺、色内各町の国道筋を直進して中央通りを小樽駅に至り、さらに色内大通りを手宮駅を経て魚鱗(?)会社角より曲折、錦町本通りに出て小樽バス終点より手宮貨物駅側車庫に至るものである。

 なお、小樽郊外自動車会社より出願に係るトラックの市内運転については、なお研究の余地ありとして保留することになった。

【小樽郊外自動車】小樽―余市間スタート! (1934年5月10日)


小樽郊外自動車株式会社(銀バス)は、10日から小樽〜塩谷経由〜余市間の運転を開始する。小樽、沢町両起点から午前正7時〜午後正7時まで1時間ごとに発車し、正午を除いて12回運転。料金は小樽〜沢町間臨時割引金45銭と決定した。

【省営バス】札樽間の運行スタート! (1934年6月10日)


本道唯一のドライブウエー、札樽国道の改修が昭和9年1月に完成し、札鉄局では10日から苗穂〜手宮間で省営バスの営業を開始した。これは本道初めての省営バスで車両数は新装の大型バス5台(東京瓦斯電気会社製・千代田号C46型、定員38人)、手宮〜苗穂間(42㌔)の所要時間2時間12分、運賃は1円32銭。ダイヤは手宮〜苗穂3往復、手宮〜札幌駅、軽川〜苗穂、軽川〜札幌駅各1往復の計6往復。運賃、所要時間とも鉄道の倍近くかかるが、初日の乗客は367人とまずまずの滑り出し。狭い道幅でダイヤ確保に苦労、待避してくれた人には乗務員が挙手の礼で感謝していた。
 板谷小樽市長は開発への効果に期待をかけ、瓜生札鉄局長は「観光ドライブとして申し分ない」と述べた。

小樽名物バス競争 (1934年6月25日)


近づいた近海の浜開きを前に、また今年も小樽名物の両バス会社の競争が始まった。海水浴場塩谷路線に対し、小樽市街バスでは早くも連日15台市中直通運転を出願、これに対して郊外バスでは「それでは困る、車両7台日曜と丑の日のみ限られたい。元来この路線は郊外バスの生命線で、市街バスが臨時に割り込むべき性質のものではない。車両も当社は15台あるから輸送能力は十分だ」と小樽署へ25日事情を具陳して小樽市街バスの割り込み反対を表明した。

 一昨年までは市街バスは連日運転だったが、昨年郊外バスは車両15台にしたので市街バスは土曜、日曜、祭日、丑の日車両は7台に限り中央通始発とした。昨年はまさに血の雨を降らそうとするような競争激化となったので、今年は果たしてどう納まりをつけるかが注目されている。

小樽バス合戦に塩谷村民も― (1934年7月1日)


塩谷線をめぐって小樽両バス会社の競争はいよいよ尖鋭化、市街バスは「塩谷村の輿論だからぜひとも連日15台に運転」を主張し、郊外バスはまた「輸送能力は充分だから市街バスは断じて乗り込むべきではない」と互いに一歩も譲らない。

 そこへ、小樽市民とともに一番利害を有する当の塩谷村民有志25名が俄然このバス合戦に登場してきた。有志らは25日道庁に「小樽市民夏の行楽の適地、塩谷のために小樽バスの運行を一昨年のように毎日を許可するよう相成りたい」という旨の陳情書を提出し、28日は一同出札して増原保安課長に会い、昨年の浴客減少の実情を述べて懇願した。さらに29日小樽警察署の榎本署長を訪問し「銀バスに対して恨みがあるわけでも何でもないが、交通の便が悪いため塩谷村海水浴場が莫大な不利益を被っている」と実情を述べ、小樽署でも昨年の紛争その極に達し、苦い経験をなめさせられているので今年は慎重に研究しているが、29日道庁から増原保安課長が来樽し、小樽署から榎本署長ら、市街バスから新谷専務、郊外バスから仲木社長が同行し実地調査を行っているが、道庁が果たしていかなる"名判決"を下すか注目されている。

 今年は省営バスの運行とともに、さらに各浴場地の浴客争奪戦が自然化すべく塩谷では先手を打って、来る7月5日浜開きの予定だが、このバス問題がいまだ落着しないので掛茶屋などもハッキリしたプランを立てかねている。

小樽市街バスに認可 (1934年7月10日)


海水浴地である塩谷線をめぐって小樽の両バス会社はシノギを削る競争を続けていたが、道庁は10日、市街バスに対し次の認可を与えた。この認可をみると郊外バスの阻止運動は結局やぶれたようで、今後は両バスが客の争奪に奔走することだろう。

【省営バス】銭函海水浴場に臨時バス (1934年7月17日)


銭函浜開き、小樽住吉神社大祭というので、札樽省営バスは柾里〜南小樽間に10往復、苗穂〜銭函海水浴場間に4往復を臨時運転したが、運転初日は新鋭100馬力の千代田車が予備車も含め計5台で運転、初日の乗車人員769人、収入289円80銭という素晴らしい成績。なかでも柾里〜南小樽臨時運転の乗車人員は210人で、45円の水揚げがあったことは注目に値する。

 また沿道の遊覧地、滝ノ沢温泉、神工園などはもとより、銭函音頭にもある十万坪の苺は昨今真っ盛りで、畑は一面緋(あか)の絨毯を敷き詰めたような美しさに、苺狩りの人々が終日来往しているのが見受けられた。なお十万坪は苺の盛期が終われば引き続き桜桃が出盛るので、ここしばらくは相当な賑わいを見せるだろう。

【省営バス】競馬場行き臨時バス (1934年8月4日)


全国秋競馬のさきがけ札幌競馬が開催される4〜7日と10〜12日まで、省営バスは会期中、手宮〜競馬場間に1往復の臨時運転を行い、往き2台、帰り3台を運転する。

【小樽市街自動車】小樽の交通機関、地区の発展へ (1934年10月24日)


丘陵起伏の多い小樽市では、市内唯一の交通機関はバスによるほかはない。町幅の狭いのと至るところ坂道であるため、モダン電車は技術的に開通が難しく、唯一の市民大衆交通機関として、小樽市街自動車株式会社(小樽バス)は今後も市の拡大に拍車を加え、地区の発展に積極性を与えるだろうこと甚大ではない。緑町上部、松ヶ枝町、長橋、若竹、奥沢などの繁栄はバスに負う所が多く、朝里、熊碓方面、入舟町上部、長橋、塩谷など、小樽の将来の住宅地開発はまずバスの地区からするといっても過言ではない。

 同社は総延長20哩(マイル)余り、車両50台余り、従業員211名。社長は河原直孝氏、専務新谷専太郎、専務杉江仙次郎の両氏。夏季中は保健地帯「塩谷海水浴場」への臨時運転もしており、最近は観光バス経営の権利を獲得、ジエー・エム・シイ25人乗り、70馬力、価格7千円という優秀車を入れ、風光に富む小樽市内近郊はもちろん、北海道各地景勝地を案内することになっている。営業路線は①手宮〜若竹町、②若松町〜長橋、③山の手線、④築港〜水源地、⑤石山線、⑥郵便局〜最上町、⑦オタモイ線の7線。

(写真:小樽バス会社)

【小樽定山渓バス】半年ぶりに再開 (1935[昭和10]年5月18日)


モダントリップにふさわしい小樽定山渓バス専用道路は18日、半年ぶりに開通した。桜花散り始めた晩春の港小樽をスタートして望洋川を越え、朝里水源地より魚留の滝付近に至り、九十九折りの蛇行を登行して、昨秋定バス会社の意向で青木郭公氏の句碑が建立された石狩後志国境付近から熊の穴までの約3哩(マイル)は、車道の両側約7尺の積雪に覆われたまま。ヘルベチアヒュッテ白樺の密林あたりから後半のコースは、両側山肌に佇立する疎林は晩秋を思わせ、いで湯の里定山渓に向かう24哩の路線。

【省営バス】札樽間の臨時割引 (1935年7月1日)


札樽国道を定期運行している省営バスでは、郊外散策者の利便をはかって7/1〜8月末日まで次の区間を臨時割引する。なお7/16〜8月末日まで札幌〜銭函海水浴場間の臨時バスを運転し、料金も往復60銭に割引する。

【省営バス】運転時間改正 (1935年11月1日)


札鉄局では1日より札樽間省営バスの運転時刻を改正する。主な停車場の発時刻は次の通り。
(上り)札幌→小樽
苗穂 738     1053 1338 1608    
札幌 745   900 1100 1345 1615 1835  
円山 754   909 1109 1354 1624 1839  
琴似本通 758   914 1114 1359 1629 1844  
軽川 815   931 1131 1416 1646 1900  
滝ノ沢     937 1137 1422 1652    
神工園   朝里発 959 1159 1444 1714   朝里発
南小樽   833 1023 1223 1508 1738   1916
小樽   840 1031 1231 1516 1745   1924
手宮     1038 1238 1523     1931
(下り)小樽→札幌
手宮 740     1102 1322 1612    
小樽 748   845 1110 1330 1620 1820  
南小樽 756   853 1118 1338 1628 1828  
神工園     917 1142 1402 1652 朝里止  
滝ノ沢     938 1202 1422 1712  
軽川   820 945 1210 1430 1720 1905
琴似本通   836 1001 1226 1446 1736 1921
円山   841 1006 1231 1451 1741 1926
札幌   850 1016 1241 1501 1750 1936
苗穂     1022 1247 1507   1942

【余市臨港軌道】余市―浜余市間免許 (1935年11月15日)


余市臨港軌道株式会社(本社・東京市麹町区土手3番町、営業所・余市浜中町)が申請していた自動車運転事業の経営免許が次の通り許可された。

【小樽バス】雪害途絶7日目でようやく運行 (1936[昭和11]年2月8日)


雪害による小樽の交通機関途絶から1週間目の7日午前7時半から、小樽バスはようやく次のダイヤで運行を開始したが、いずれも平常よりは30〜40分位ずつ多くかかっており、雪の中に立ち往生するのも頻発している。全線開通はなお1週間を要する見込み。

【臨港バス】昭和町―谷好町間免許 (1936年5月8日)


鉄道省は8日付で、次の通り自動車運輸事業経営認可の指令を発した。

【臨港バス】昭和町―谷好町間免許 (1936年5月8日)


鉄道省は8日付で、次の通り自動車運輸事業経営認可の指令を発した。

【小樽定山渓自動車道】半年ぶりに再開 (1936年5月25日)


小樽定山渓自動車道株式会社(小樽市永井町)ではいよいよ25日から定バス専用道路が開通し、半年ぶりに南小樽〜定山渓間の「定バス」を運転する。南小樽〜定山渓間の料金は1円50銭。同社では「明媚なる沿線の風光を―」と大々的に宣伝している。


(写真:白銀の廊下を行く小樽定山渓バス)

手宮以北の延長を要望 (1936年7月19日)


小樽市手宮町以北の梅ヶ枝町、本田沢、末広町方面は人口が著しく激増しているが、市内中央部との交通連絡が非常に不便なため、昨年3月以来、各町会代表者は連携して乗合自動車の延長運転を希望している。

 19日午後8時より梅ヶ枝町正光庵で町民大会を開き、各町会長実行委員は札鉄および道庁に対し猛運動をすることを申し合わせ、10時過ぎに散会した。

【田井直治】狩太駅前―ニセコアン間免許 (1936年9月12日)


鉄道省は12日、田井直治氏が申請していた次のバス延長を免許した。

【省営バス】倶知安―洞爺湖間を陳情 (1936年12月8日)


鉄道省では来年度から狩太駅〜留寿都〜洞爺湖間に省営バスを運行することになったが、倶知安町では「観光倶知安」の使命を果たすべく倶知安〜喜茂別〜洞爺湖間の路線を要望し、運搬関係方面に陳情書を出すとともに実現のため邁進することになった。

 同路線は狩太〜洞爺間に対し、羊蹄山の後方を回り半月湖を観光するほか、視察個所が豊富で、定山渓に通じる近道ともなり観光客以外の旅客もはるかに多数あるという理由があり、さらに狩太駅は現在急行列車の停車駅ではない関係上、観光客にはかなり不便であるなどのことから、これを実現させたいとしている。

【省営バス】狩太―洞爺湖間に観光バス (1937[昭和12]年1月8日)


融雪とともに狩太〜洞爺湖間に省営観光バスが開通する。時間は僅かに2時間。

【小樽郊外バス】塩谷線バス運転 (1937年4月9日)


道路が良くなり、また小樽近海はニシンが群来て人間の往来が繁しくなったので、小樽郊外バスでは9日から塩谷線の運転を開始した。

【札幌自動車】古平―余市間近く開通 (1937年4月22日)


札幌自動車会社古平営業所では昨年11月以来、陸路交通の自動車が雪のため冬籠り中のところ、4月初旬から多数の人夫を督励し、古平〜余市間山道の除雪に大馬力をかけているので近く自動車の運行ができるとのこと。

【省営バス】札樽間に停留所増設 (1937年6月1日)


かねて懸案中だった苗穂〜手宮間鉄道省営バスの旅客運賃を1日から改正し、料金は従来の半額となり鉄道運賃と大差なくなるが、これと同時に札樽間に停留所10ヶ所を増設する。増設停留所と改正運賃は次の通り。

【小樽郊外自動車】余市待合所完成 (1937年11月16日)


小樽郊外自動車会社が約1万円を投じて、5月初旬から余市大川町目抜十字街の一角に建設していた車庫とモダンコンクリート建の待合所がこのほど完成した。総建坪103坪、待合所45坪でコンクリート2階建てバルコニー付き、屋根は瓦葺、外装はすこぶるモダン味を漂わし、待合所2階に食堂を開設する予定。16日正午より新車庫内で盛大な新築落成式が行われ、当日は中井社長、紺野支配人ほか、同社重役並びに沿線各町村関係有志100余名を招待した。

(写真:落成した待合所と車庫)

【帝国電力・臨港バス】函館市内のバス営業免許 (1937年11月26日)


鉄道省は26日、次のバス営業を免許した。

【小樽郊外バスほか】余市―鉱山間は不許可 (1937年11月24日)


小樽郊外バス会社、余市臨港鉄道会社、鈴木自動車屋、聞(?)玉自動車屋の4者から道庁当局に許可方を願い出ていた余市駅〜余市鉱山間の定期バス運行は、競願のためいずれも不許可になった。

 しかし隣接する湯内鉱山を合併し、飛躍的発展を遂げる住友余市鉱山(余市山道村奥)では、余市町市街に出入りする関係上バス運行を期待しているので、余市商工会では醜い獲得戦をしている先の4者を妥協させ、新たなバス経営会社を組織して許可実現に着手することになった。このバス運行によって余市町の各商工業者に与える福利の増進は非常に大きいため、その成り行きは相当注目されている。

【小樽郊外自動車】塩谷―オタモイ間を免許 (1937年11月26日)


鉄道省は26日、小樽郊外自動車株式会社が申請していたバス営業を免許した。区間は忍路郡塩谷村大字塩谷字オタモイ475番地の1地先〜同郡同村大字塩谷274番地先間0.37㌔。

【下海岸自動車ほか】バス営業免許 (1937年12月21日)


鉄道省は21日、次の申請者のバス営業を免許した。

小樽市街自動車の躍進 (1938[昭和13]年4月)


小樽市の唯一の大衆交通機関として、最近躍進の一路をたどる小樽市街自動車株式会社は大正10年9月、わずか5万円の小資本をもって創業。いまや資本総額金30万円、営業路線30哩、1年の乗客人員約470万人、従業員約250名を擁し、夕張、美唄、定山渓など同業各傍系会社を従え、乗合自動車運輸のほか大型貸切観光車、名勝旧跡遊覧車およびハイヤーなどを兼営し、本道の交通界に揺るがざる王座を占めつつある。

 本年はとくに大型貸切車の利用宣伝に力を入れ、定山渓バスの経営も昨年の経験に基づき、内外の整備充実を図りつつあり、5月中旬の開通めざして現在除雪作業に努めている。

【小樽郊外バス】余市―小樽間を開始 (1938年4月15日)


小樽郊外バスではいよいよ余市〜小樽間の運転開始を15日と決定した。

【小樽市街自動車】小樽遊覧バスの概要 (1938年4月24日)


小樽市街自動車株式会社が昨夏より開業した小樽遊覧バスは、本道唯一の遊覧バスとしてせう酒な16人乗り遊覧車1輌を常備して小樽駅を起点とし、案内車掌の懇切な説明で市内名勝地をくまなく遊覧しているが、同社観光課では郷土紹介のためこの小樽新名物"ヲタル・ユーラン"に積極的に乗り出し、一度試乗して小樽市の認識を新たにしてほしいと希望している。同社遊覧バスの遊覧個所、所要時間、料金などは次の通り。

(写真:小樽遊覧バス)

【木古内自動車】江良―上ノ国間免許 (1938年8月3日)


鉄道省は3日、木古内自動車から出ていた次の自動車運輸事業経営免許の指令を発した。

【八雲熊石間乗合自動車】八雲―熊石間開通 (1939[昭和14]年6月16日)


八雲駅前〜熊石小学校前間に到る八雲熊石間乗合自動車は、融雪後運転中のところ道路も完成したので、いよいよ午前午後2往復運転中である。

狩太―昆布温泉間開通 (1939年6月16日)


狩太駅〜昆布温泉間のバスはこのほどいよいよ開通した。駅からニセコ登山口までは約13分、昆布温泉までは20分の行程。運転時間は次の通り。

【余市臨港軌道】ガソリンカー廃止でバス転換 (1939年10月5日)


余市臨港軌道株式会社の東部市街と西部市街をつなぐガソリンカーは、昭和8年から余市町民の足として便益を図ってきたが、今回道庁当局の意向でこれを撤去廃業することになり、営業廃止の申請を提出した。

 これに対し、余市町から町会の決議をもって阻止反対の答申を提出したが、道庁当局の方針はすでに決定し、近く余市町民の反対にもかかわらず廃止認可になる模様である。なお同社はこのレールを売却(20万円の見込み)、乗客は大型バスを貨物はトラックをそれぞれ運転、営業を続け、交通運搬の上に支障を来たさないようにする方針。

【省営バス】札樽線ダイヤ改正 (1939年11月1日)


札樽間省営バスのダイヤは1日から改正実施する。上下各23本のうち、札樽通しバスの改正発着時刻は次の通り。

【省営バス】苗穂―手稲鉱山間開通 (1940[昭和15]年4月9日)


札樽省営バスの苗穂〜手稲鉱山間はこのほど開通したが、この路線復旧の裏では去る1日の興亜奉公日に上手稲郷軍、青年団100余名が上手稲〜軽川間約8㌔の雪割り奉仕作業を行い、札鉄当局を感激させている。なお全線開通は今月下旬の見込み。

(写真は省営バス)

【小樽郊外自動車】小樽―塩谷間を運転 (1941[昭和16]年4月17日)


小樽市街自動車と合併を伝えられた小樽郊外自動車株式会社は、その後の交渉が進捗せず単独のまま営業を続けることとなり、17日から小樽〜塩谷間の運転を開始、午前8時から午後5時まで営業する。なお小樽〜余市間の開通は5月1日より、午前7時〜午後6時まで1時間半ごとに運転する。(※小樽郊外自動車は1942年11月、小樽市街自動車に営業譲渡して解散)

『北海道中央乗合自動車』仮営業スタート! (1943[昭和18]年3月1日)


札幌、後志、石狩、空知地区の21業者が対等合併した北海道中央乗合自動車株式会社は1日から仮営業を開始する。資本金135万円で本社を小樽市(稲穂町東3丁目29番地)、支社を小樽市(本社内)と札幌市(札幌市北7条東1丁目)におき、取締役社長に小樽市街自動車の杉江仙次郎氏が就任する。

 この新会社は鉄道省の指導により事業統制の必要上設立したもので、小樽地区では小樽市街自動車、小樽定山渓自動車、後志自動車、余市赤井川自動車、余市臨港バスの5社が統合する。(北海道中央バス社史より抜粋)

【省営貨物自動車】石崎線スタート! (1943年3月1日)


鉄道省では札鉄局函館管理部管内石崎線(上ノ国〜石崎間21㌔)の省営貨物自動車の運輸営業を1日から開始する。新設路線沿線は各種鉱物資源や林産資源に恵まれ、最近積極的に開発が行われていたが、今回省営貨物専用自動車の運転により搬出は容易となり、開発にいっそう拍車がかかるものと期待されている。

 戦時陸運非常体制の確立に伴い、札鉄局は本州方面のように管内に省営貨物自動車線を設定して非常輸送の目的を達成することになり、陸運に切り換えるべき海運重要物資について検討した結果、まず省線上ノ国駅〜準地方費道江差線〜地方費道福山線〜石崎間を選定。貨物取扱駅は終点石崎、および中間の木ノ子の2ヶ所に設置し、業務は丸通に委託される。これにより石崎〜江差〜函館間は完全に結ばれ、戦時下、石崎方面の海上輸送物資はすべて確実な陸運によってただちに国鉄に接続するとともに、中間地帯の物資もまたその恩恵に浴することになる。

【停車停留所】上ノ国 木ノ子 汐吹(1948.12.15より新設) 石崎
※この路線はマンガン鉱輸送路線として開業したもの

【省営自動車】苗穂―手宮間開通 (1943年5月1日)


苗穂〜手稲鉱山通り間に限り運転中の省営自動車は、1日から苗穂〜手宮間全線の運転を開始する。

【省営貨物自動車】国富線スタート! (1943年11月15日)


札鉄局は15日から貨物専用の自動車線として「国富線」(国富〜茂岩間27㌔)の運行を開始する。

 道内重要鉱物の開発促進に並行して山元と麓間の輸送確保をはかろうと、同局は今春以来すでに渡島の石崎線、日高の様似??線の貨物自動車線を開業させると同時に、引き続き積丹半島の各種鉱物資源の重要性を考え、岩内郡国富〜古宇郡茂岩を結ぶ新線開設計画を進めていたが、いよいよ線区の整備、配車準備も完了したので15日から運転を開始することになった。

 同線区の配車数はさし当り??台だが明春からは2倍に増やす予定。同線の開通によって、地下資源の宝庫として非常な期待がもたれている同地方の開発は一段と促進されるわけである。

【停車停留所】国富(駅) 幌似(駅) 発足(1948.12.15より新設) 堀株(ほりかぶ) 茶津(ちゃつ) 後志茅沼(1948.12.15より新設) 後志泊 盃 茂岩 ※この路線は帝国興発が採掘した銅鉱石輸送路線として開業したもので、キロ程から終点は第2茂岩鉱山(茂岩温泉の約1.5㌔先)と思われる

【省営バス】5年ぶり札樽線復活 (1947[昭和22]年5月1日)


札鉄自動車課では札樽省営バスの苗穂〜手宮間(43㌔)を5年ぶりに復活する。復活連絡は融雪をまって当初の計画どおり1日から開始。旅客バスは10台開設され、貨物トラック7台も配車され手小荷物輸送も行う。
※札樽線は燃料難(当時は道産のマキ、木炭、コークス)により、並行する鉄道があるからという理由で1944年4月営業休止の説もあり

【省営バス】札樽線ダイヤ改正 (1948年5月21日)


21日から省営バスの札樽線運転時刻を次のように改正する。

【省営バス】苗穂―手稲鉱山通間を増発 (1948年7月1日)


札鉄では苗穂〜手稲鉱山通間に1日から省営バス1往復を増発した。

【省営バス】ダイヤ改正 (1948年7月15日)


札鉄局では15日から次の通りバス時間を変更。

銭函まで海水浴バス (1948年7月20日)


札幌交通公社(札幌市)では中央乗合自動車とタイ・アップし、20日から銭函行きの海水浴専用バスを運転する。毎週火、木、土曜日の3日で、午前8時と10時に同交通公社前を出発、トレーラー・バスで1日400人の海水浴客を輸送する。料金は大人往復50円、子供同30円で、16日から一般の申込みを受けている。

【国営バス】札樽線ダイヤ改正 (1948年10月15日)


札鉄局では15日から国営バス札樽線の一部運転時間を次の通り変更。

【省営バス】札樽線12停留所復活 (1948年12月15日)


15日から省営バス札樽線に次の12停留所を復活させる。

【国営バス】冬季運休線の再開など (1949年4月4日)


雪解けにより運休路線を再開する。

小樽競馬臨時バス (1949年6月10日)


中央バスは小樽競馬の期間中、札幌市拓銀前から臨時バスを運転する。

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